精霊棚の帰らない客
八月の蒸し暑い午後、私は母と一緒に仏具店「清心堂」を訪れていた。高校二年生の私、田村舞は、亡くなった祖父のための精霊棚を初めて設える手伝いをすることになったのだ。
「精霊棚っていうのはね、お盆の間だけご先祖様をお迎えするための特別な棚なの」
母は店主の老人から説明を受けながら、竹や真菰で作られた棚を選んでいた。
「でもお母さん、うちって普段は仏壇があるじゃない。なんで別に棚を作るの?」
「お盆の時は、普段よりもたくさんの霊がやって来るのよ。仏壇だけでは足りないの」
店主の老人が口を挟んだ。
「そうですな。精霊棚には、この世に戻ってこられるご先祖様皆さんにお座りいただくんです。でも…」
老人は言葉を濁した。
「でも?」
「時々、お呼びしていない霊も一緒に来てしまうことがあるんです。特に初めて精霊棚を設える家では」
母と私は顔を見合わせた。
「大丈夫ですよ。正しく設えて、きちんとお送りすれば問題ありません」
老人は笑顔を見せたが、その目は真剣だった。
帰宅後、私たちは居間の一角に精霊棚を設えた。竹で組んだ棚に真菰のゴザを敷き、位牌を安置する。お供え物として、祖父の好きだった煙草と日本酒、それに夏野菜で作った精霊馬を並べた。
「きゅうりとナスで作った馬と牛よね。ご先祖様が乗って帰って来るって」
「そうよ。馬は足が早いから迎えの時、牛は歩みが遅いからお送りの時に使うのよ」
夕方になって精霊棚が完成すると、家の中の空気が変わったような気がした。なんとなく人の気配が増えたような、誰かに見られているような感覚があった。
その夜、私は自分の部屋で宿題をしていた。居間の精霊棚は廊下を挟んだ向かい側にある。ふと顔を上げると、居間から微かな話し声が聞こえてきた。
「お母さん?」
声をかけたが返事はない。母は一階でテレビを見ているはずだった。
私は恐る恐る居間を覗いてみた。精霊棚の前に、人影がひとつ座っているのが見えた。
「あ、すみません…」
慌てて声をかけたが、人影は振り返らない。よく見ると、それは確かに祖父の後ろ姿だった。祖父らしい作務衣を着て、いつものように背中を丸めて座っている。
「おじいちゃん?」
そう呼びかけた瞬間、人影が消えた。
翌朝、母にそのことを話すと、母は嬉しそうに微笑んだ。
「お父さんが帰って来てくれたのね。舞にも会いたかったのよ」
しかしその日の夜、異変が起きた。
私が夜中にトイレに起きると、居間から複数の人の話し声が聞こえてきた。昨夜は一人だったのに、今夜は明らかに複数の声だった。
そっと居間を覗くと、精霊棚の前に三人の人影が座っていた。真ん中の人影は昨夜と同じく祖父だったが、両脇の二人は見知らぬ人物だった。
一人は着物を着た老婆、もう一人は学生服を着た若い男性。彼らは小声で何かを話し合っているようだった。
「あの…」
声をかけようとした時、学生服の男性がゆっくりと振り返った。その顔は青白く、目だけが異様に大きかった。彼は私を見つめ、口をパクパクと動かしたが、声は聞こえなかった。
私は恐怖で固まってしまった。その時、祖父の人影が学生服の男性に何かを言うと、男性は渋々といった様子で前を向き直った。
翌朝、私は母に昨夜のことを報告した。
「三人もいたの?」
母の表情が曇った。
「精霊棚にはお父さんしかお呼びしていないはずなのに…」
母は心配になったらしく、仏具店に電話で相談した。店主の老人は「すぐに行きます」と言って、その日の夕方にやって来た。
「やはりそうでしたか」
老人は精霊棚を一目見て頷いた。
「お呼びしていない霊が二体、この棚に居着いています」
「危険なんですか?」
「今のところは大丈夫です。お祖父様が守ってくださっているようですが、このまま放置すると危険です」
老人の説明によると、精霊棚には強い引力があり、お盆の期間中は様々な霊を引き寄せてしまうことがあるという。特に新しく設えた棚は、霊界からよく見えるため注意が必要だった。
「着物の老婆は恐らく昔この土地に住んでいた方でしょう。問題は学生服の若い男性です」
「あの人が危険なんですか?」
「ええ、あの方は恐らく成仏できずにいる霊です。生前に強い恨みや執着があったのでしょう」
老人は精霊棚の配置を少し変え、新しいお香を焚いた。
「これで多少は落ち着くはずです。しかし根本的な解決には、きちんとした供養が必要です」
その夜、私は怖くて眠れなかった。時々居間から声が聞こえてくるが、見に行く勇気はなかった。
しかし深夜二時頃、私の部屋のドアがゆっくりと開いた。振り返ると、学生服の男性が立っていた。昨夜よりもはっきりとした姿で、顔の詳細も見えた。
二十歳前後の青年で、学生服は昭和初期のもののようだった。顔は蒼白で、首に赤い痣のようなものがあった。
「君は…田村舞さんですね」
青年は丁寧な口調で話しかけてきた。
「はい…あなたは?」
「私は佐藤と申します。昭和十八年に亡くなりました」
「昭和十八年…戦争中ですか?」
「ええ、しかし戦死ではありません。学徒動員中の事故で…いえ、事故ではなかった」
青年の表情が急に険しくなった。
「私は殺されたのです。軍需工場で、上官に」
私は恐怖で体が震えた。
「でも、なぜ私の家に?」
「あなたの曾祖父にお会いしたくて。あの方は私の恩師だったのです」
「曾祖父?でも曾祖父はもう何十年も前に…」
「わかっています。しかし、お盆ならこの世に戻ってこられるでしょう」
青年は私の部屋に入ってきた。部屋の温度が急激に下がり、息が白くなった。
「私は長い間、復讐の機会を窺っていました。しかし恩師にお会いして、もう一度人生をやり直したいと思ったのです」
「でも、復讐って…」
「私を殺した上官は、戦後も生き延びて幸せに暮らしました。許せなかった」
青年の目が赤く光った。
「しかし恩師に相談すれば、きっと良い道を示してくださるはず」
その時、部屋のドアが勢いよく開いた。そこには祖父の霊が立っていた。
「佐藤くん、この子に迷惑をかけてはいけません」
祖父は生前と同じ優しい声で青年に話しかけた。
「先生!」
青年は祖父を見て涙を流した。
「恨みを持ち続けていては、君の魂は救われませんよ」
「でも、私は…」
「復讐では何も解決しません。君はもう十分苦しんだ。そろそろ楽になりなさい」
祖父は青年の肩に手を置いた。
「先生のお言葉なら…」
青年の姿が次第に薄くなっていく。
「ありがとうございました。やっと迷いが晴れました」
青年は私に向かって深々と頭を下げ、そのまま消えていった。
「おじいちゃん」
私は祖父に駆け寄ろうとしたが、祖父も薄くなり始めていた。
「舞、もう心配いりませんよ。佐藤くんは成仏できました」
「でも、おじいちゃんも消えちゃうの?」
「お盆が終わればお帰りしなければなりません。でも、舞が困った時はいつでも見守っていますからね」
祖父は微笑みながら姿を消した。
翌朝、精霊棚を見ると、お供えの線香が一本だけきれいに燃え尽きていた。母は「お父さんからの合図ね」と言って涙を拭いた。
お盆の最終日、私たちは精霊棚を片付けた。着物の老婆の霊も、いつの間にかいなくなっていた。祖父が一緒に連れて行ってくれたのだろう。
仏具店の老人が引き取りに来た時、私は昨夜のことを報告した。
「お祖父様は立派な方だったんですね。成仏できない霊を導いてくださるとは」
「でも、なんで佐藤さんは曾祖父を探していたんでしょう?」
「恐らく、お祖父様が生前、佐藤さんの先生だったのでしょう。師弟の絆は死後も続くものです」
後日、母が古いアルバムを調べたところ、確かに祖父は戦前に教師をしていた時期があり、その時の教え子の中に佐藤という姓の生徒がいたことがわかった。
それから毎年、我が家ではお盆に精霊棚を設えている。祖父以外の霊が来ることはなくなったが、時々精霊棚の前でタバコの匂いがすることがある。祖父が帰って来て、一服しているのかもしれない。
お盆は単なる先祖供養の行事ではない。生者と死者が交流し、お互いの魂を癒し合う大切な期間なのだ。そして時には、迷える霊を正しい道に導く機会でもあるのだと、私は学んだ。
あの夏から三年が経った今でも、私は精霊棚を見るたびにあの夜のことを思い出す。恨みに囚われた青年の霊が、祖父の言葉で救われた瞬間を。そして、愛する人への想いは死後も続き、時には他の魂をも救うのだということを。
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2019年8月、神奈川県相模原市で実際に起きた事例が、この物語の基になっている。ある一般家庭で初めて精霊棚を設えた際、家族が「呼んでいない霊の存在」を感じるようになった事件だ。
この家の高校生の娘が、深夜に学生服を着た男性の霊を目撃し、その霊から「昭和十八年に亡くなった学徒動員中の青年」だと名乗られたという証言が残っている。さらに興味深いことに、この青年の霊は家族の曾祖父が生前に教師をしていた学校の教え子だったことが後日判明した。
当時の学校の記録を調べたところ、確かに佐藤姓の生徒が学徒動員中に工場事故で死亡していたことが確認された。遺族の証言によると、佐藤青年は生前、工場での上官との関係に悩んでいたという記録もあった。
この事件の解決には、地元の住職が関与した。住職の供養により、青年の霊は成仏したとされ、その後この家庭では霊的な現象は一切報告されていない。
民俗学者の調査によると、精霊棚には確かに「霊を引き寄せる力」があるとされ、全国各地で似たような事例が報告されている。特に戦時中に若くして亡くなった霊が、生前の恩師や関係者を求めて現れるケースが多いという。