帰らざる人の盆
蒸し暑い八月の午後、私は父の実家がある岩手県の山間の集落を訪れていた。東京の高校二年生の私にとって、スマホの電波が不安定なこの場所での夏休みは、毎年恒例の"お盆の義務"でしかなかった。
「友樹、また一段と大きくなったね」
玄関で出迎えてくれた祖父は、八十を過ぎても背筋がピンと伸びていた。祖母は昨年亡くなり、今年は初めてのお盆を迎えるのだという。
「お盆の準備、手伝うよ」
そう言って荷物を二階の客間に運び込んだ。窓からは山々に囲まれた集落の景色が広がり、夕暮れ時の赤みを帯びた空が美しかった。
祖父は黙々と仏壇を磨いていた。その姿を見ていると、ふと思い出した。祖母が生きていた頃、彼女は常に「お盆には帰ってくるよ」と言っていたことを。
「おじいちゃん、今年のお盆の準備は何か特別なことある?」
祖父は手を止め、遠い目をした。
「今年はね、特別なんだ。たつみの初盆だからね」
たつみ。それは私にとって叔父の名前だった。祖父母の長男で、父の兄。私が五歳の時に事故で亡くなり、私自身はほとんど記憶がなかった。
「たつみは…お盆には必ず帰ってくる約束をしていたんだ」
祖父の声は少し震えていた。
その夜、私は父が子供の頃に使っていた部屋で眠ることになった。壁には古い家族写真が飾られ、その中に若かりし頃の叔父の姿もあった。真っ直ぐな眼差しの、父によく似た男性だった。
「友樹、明日は墓掃除の日だからね。朝早いけど大丈夫かい?」
就寝前に祖父がそう言った。私は頷きながらも、なぜか叔父の写真から目が離せなかった。
深夜、不意に目が覚めた。窓の外は満月で、部屋の中まで青白い光が差し込んでいた。時計を見ると午前二時三十分。お盆の入りの日の真夜中だった。
異様な静けさの中、階下から微かに話し声が聞こえてきた。祖父が誰かと話している。こんな時間に来客があるとは思えない。好奇心に駆られて、そっと階段を降りてみた。
リビングのドアがわずかに開いていて、中から漏れる光に照らされた祖父の姿が見えた。彼は仏壇の前に正座し、誰もいない空間に向かって話しかけていたのだ。
「たつみ、本当に来てくれたのか…」
祖父の声は震えていた。そして次の瞬間、私の血が凍りついた。
「ああ、父さん。約束したから」
もう一つの声が聞こえた。低く、どこか遠くから聞こえるような男性の声。しかし、部屋には祖父しかいない。
震える足で立ち尽くしていると、突然床板が軋んだ。祖父が振り返り、私に気づいた。
「友樹、起きていたのか」
彼の表情は複雑だった。怒りでも驚きでもなく、むしろ諦めたような顔だった。
「誰かと…話してたの?」
祖父は長い沈黙の後、深いため息をついた。
「見えたかい?聞こえたかい?」
その問いに、私はただ頷いた。祖父は私を促してリビングへ入るよう促した。そこで目にしたものに、私は言葉を失った。
仏壇の前に、ぼんやりとした人影が座っていたのだ。輪郭は曖昧で、透けているようにも見えたが、確かにそれは人の形をしていた。そして、その姿は壁の写真の叔父にそっくりだった。
「た、たつみおじさん…?」
その言葉に反応して、影が私の方を向いた。表情は見えなかったが、何かを伝えようとしているように感じた。
「友樹、びっくりしただろう」祖父が静かに言った。「たつみは約束を守りに来たんだ。お盆には必ず家に帰ると」
その夜、祖父は私に語った。叔父・たつみは生前、毎年欠かさずお盆に帰省していたこと。事故で亡くなる前日も「来年も必ず帰るから」と約束していたこと。そして、亡くなった翌年のお盆から、不思議なことが起き始めたという。
「最初は仏壇の線香が、誰も火をつけていないのに突然燃え始めたんだ。それから、たつみの好きだった座布団が少しへこんだように見えたり…」
祖父によれば、三年目のお盆にははっきりとたつみの姿が見えるようになったという。しかし、それを見ることができたのは祖父母だけだった。
「おばあちゃんは見えていたの?」
「ああ。彼女はたつみとよく話していた。お前のお父さんには言わなかったけどね」
あの日以降、毎晩たつみの姿は仏壇の前に現れた。最初は恐怖を感じたが、次第にその存在に慣れていった。彼は話すことはほとんどなく、ただそこにいるだけだった。時折、家の中を歩き回ることもあったが、決して外には出なかった。
お盆の中日、私たちは墓参りに行った。墓地では不思議なことに、叔父の墓の前に蝶が一匹とまっていた。それは去ろうとせず、私たちが帰るまでずっとそこにいた。
「たつみが来ているのかもしれないね」祖父は微笑んだ。
その晩、私は祖父と一緒に仏壇の前で叔父と「対面」した。そして思い切って質問してみた。
「たつみおじさん、どうしてお盆にだけ帰ってくるの?」
長い沈黙の後、かすかな声が聞こえた。
「約束…したから」
「でも、もう十五年も経つよ。もっと先に進んだ方がいいんじゃないの?」
祖父が驚いた顔で私を見た。しかし、私は続けた。学校で習った仏教の教えでは、執着することなく成仏することが大切だと聞いていたからだ。
「おじさん、みんな元気にしてるよ。お父さんも、おじいちゃんも。だから、もう心配しなくていいんだよ」
その夜、叔父の姿は消えた。翌朝、祖父は何も言わなかったが、どこか晴れやかな表情をしていた。
お盆の送り火の日、私たちは精霊流しの準備をした。小さな灯籠に叔父の名前を書き、川に流す。
「たつみ、もう来なくていいんだよ。みんな元気だから」
祖父がそっと囁いた。灯籠が川の流れに乗って遠ざかっていく様子を見ながら、私たちは手を合わせた。
その夜、仏壇の前に叔父の姿は現れなかった。代わりに、窓の外を一羽の白い鳥が飛んでいくのが見えた。
お盆が過ぎ、私が東京に帰る日、祖父は玄関先で私の肩を抱いた。
「友樹、お前のおかげで、たつみは成仏できたと思うよ」
「本当に成仏できたのかな…」
「ああ。彼は約束を守りに来ていたんだ。でも今は、新しい約束ができた。もう心配せずに先に進むという」
帰りの電車の中、窓の外を流れる景色を見ながら、私は考えた。死者と生者の間にある見えない絆について。そして、お盆という期間が持つ本当の意味について。
あれから一年が過ぎ、今年も私はお盆に祖父の家を訪れた。もう叔父の姿は見えない。しかし、不思議なことに毎年お盆の入りの日になると、仏壇の前に一羽の白い蝶が舞い込んでくるという。祖父はそれを見て「たつみが挨拶に来た」と微笑むのだ。
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岩手県の山間部に位置するA集落では、古くから「帰らざる人の盆」と呼ばれる現象が報告されている。特に強い思いを残して亡くなった人の霊が、お盆の期間中に家に戻ってくるという言い伝えだ。
2005年、この集落で80代の老婦人が語った証言が民俗学者によって記録されている。彼女の息子は出稼ぎ先で事故死したが、毎年お盆になると仏壇の前に姿を現すという。この現象は彼女だけでなく、同じ家に住む孫にも見えていたとのことだ。
民俗学者の調査によれば、この地域ではお盆の期間中、故人の魂を迎えるための「盆棚」を特別に設置する風習があり、亡くなった人の好物や愛用品を供える。また、仏壇に供えた食べ物に歯形がついていたり、誰も触れていないはずの位牌が動いていたりする現象も複数報告されている。
興味深いのは、これらの現象がお盆の期間のみに限定されており、送り火の儀式が終わると同時に消えるという点だ。これは日本の伝統的な先祖崇拝と、一時的に魂が現世に戻るという信仰の現れかもしれない。