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怖い話  作者: 健二
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迎え火の向こう側


高校三年生の夏、私、田中美咲は母の実家がある信州の山村で過ごすことになった。大学受験を控えた夏休みだったが、一人暮らしの祖母が体調を崩したため、母に代わって看病に来たのだ。


「美咲ちゃん、ありがとうね。でも私はもう大丈夫だから」


祖母は申し訳なさそうに言ったが、七十八歳という年齢を考えると心配だった。父方の祖父母は既に他界しており、祖母は私にとって最後の祖父母だった。


実家は築百年を超える古い農家で、母屋の他に土蔵や離れが点在していた。私が泊まることになった離れは、かつて祖母の兄が住んでいた建物だという。


「叔父さんって、お母さんから聞いたことないけど…」


「ああ、正一叔父さんね。戦争で亡くなったのよ。もう七十年以上前の話」


祖母は少し寂しそうに言った。


「でも不思議なのよ。正一叔父さん、まだ帰ってきてないの」


「帰ってきてない?」


「お盆になると、普通は先祖の魂が帰ってくるでしょう?でも叔父さんだけは、一度も帰ってこない。迎え火を焚いても、送り火を焚いても…」


その夜、私は離れの六畳間で眠った。古い建物特有のきしむ音や虫の鳴き声が聞こえる中、なんとなく落ち着かない気分だった。


翌日、村の人たちが祖母の見舞いに来てくれた。皆、祖母のことを「きよばあちゃん」と呼んで慕っていた。


「きよばあちゃん、今年も正一さんのために迎え火焚くのかい?」


七十代の男性が尋ねた。


「ええ、もちろん。いつか帰ってくると信じてますから」


「でも、もう七十年以上…」


「それでも諦めません。兄は優しい人でしたから、きっと迷子になってるだけです」


村人たちは困ったような顔を見合わせていた。


お盆の入りが近づくと、祖母は迎え火の準備を始めた。普通なら玄関先や庭先で焚くものだが、祖母は家から五百メートルほど離れた小高い丘の上で焚くという。


「どうして、あんな遠くで?」


「正一叔父さんは方向音痴でね。高いところから火を見せてあげないと、家がわからないの」


八月十三日の夕方、私は祖母と一緒に丘に登った。頂上には小さな祠があり、その前に石で囲まれた火を焚く場所があった。


「毎年ここで?」


「そうよ。正一叔父さんが出征する前、『もし戦争から帰れなかったら、この祠で待ってる』って言ったの。だから私も、ここで迎え火を焚いて待ってる」


祖母は麻殻と白樺の皮を積み上げ、火をつけた。夕闇の中で、オレンジ色の炎が静かに燃え上がった。


「おかえりなさい、正一兄さん。今年も迎えに来ました」


祖母は炎に向かって語りかけた。私も一緒に手を合わせた。


その時、不思議なことが起こった。風もないのに炎が大きく揺れ、まるで誰かがそこにいるかのような気配を感じた。


「あ…」


祖母が小さく声を上げた。炎の向こう側に、人の影のようなものがちらついて見えた。背の高い男性のような輪郭だったが、はっきりとは見えない。


「正一兄さん…?」


祖母の声が震えていた。影はゆらゆらと揺れていたが、次第にはっきりしてきた。軍服を着た若い男性の姿だった。しかし、その顔には恐ろしいほどの困惑の表情があった。


「兄さん、やっと帰ってきてくれたのね」


祖母が涙を流しながら近づこうとした瞬間、男性は首を振った。そして口を動かして何かを言おうとしているようだったが、声は聞こえない。


私にはその口の動きが「だめだ」と言っているように見えた。


突然、炎が激しく燃え上がり、男性の姿は消えた。と同時に、祠の中から何かがガラガラと音を立てて転がり出てきた。


「何…?」


祖母と私は恐る恐る祠の中を覗いた。そこには古い軍用の水筒が転がっていた。表面には「田中正一」という名前が彫られていた。


「これ、兄さんの…でも、どうして?」


祖母は震える手で水筒を拾い上げた。その瞬間、私たちは背後から足音を聞いた。振り返ると、さっきの軍服の男性が立っていた。今度ははっきりと見えた。


「正一兄さん!」


しかし男性の表情は苦しそうで、何度も首を振りながら私たちから離れようとしていた。その姿を見て、私は恐ろしい推測に辿り着いた。


「おばあちゃん、もしかして正一叔父さんは…」


「何?」


「戦死したんじゃなくて、まだ生きてるんじゃないの?」


祖母の顔が青ざめた。


「そんな…でも戦死の知らせが…」


男性は私たちの会話を聞いているかのように、大きく頷いた。そして水筒を指差し、何かを訴えるような仕組みをした。


「美咲ちゃん、車で役場に行きましょう。今すぐに」


翌朝、私たちは県庁と厚生労働省に連絡を取った。戦後七十年以上が経過していたが、戦死者の記録を調べ直してもらった。


そして信じられない事実が判明した。田中正一は戦死の記録はあったものの、実際にはシベリアに抑留されており、収容所の記録では一九五三年まで生存していたことがわかった。しかし、その後の消息は不明だった。


「つまり、正一叔父さんは戦後八年間生きていて、その間ずっと家に帰りたがっていた…」


「でも、なぜ霊として現れたの?」


その答えは、シベリアの収容所跡から送られてきた資料で明らかになった。正一は収容所で病死していたが、最期まで故郷の祠のことを話していたという。同じ収容所にいた生還者の証言によれば、正一は「家族に迷惑をかけたくない。自分が生きていることを知らせるべきか迷っている」と常に悩んでいたという。


「そうか…兄さんは七十年間、家族に迷惑をかけまいと遠慮していたのね」


その夜、私たちは再び祠で送り火を焚いた。今度は正一の魂を安らかに送るためだった。


「正一兄さん、もう遠慮はいりません。ずっと待ってました。ありがとう」


祖母の言葉と共に、炎の中に正一の姿が現れた。今度は穏やかな表情で、深々とお辞儀をしてから光の中に消えていった。


その後、祖母の体調は見違えるように良くなった。まるで長年の重荷が取れたかのようだった。


「美咲ちゃんが来てくれたおかげね。一人だったら、兄さんの本当の気持ちに気づけなかった」


私は東京に戻る前に、もう一度祠を訪れた。そこには正一の水筒と共に、見たことのない古い写真が置かれていた。若い頃の祖母と正一が一緒に写った写真だった。


裏には「いつまでも待ってくれてありがとう。でも、もう自分の人生を生きてください。正一より」と書かれていた。


――――


長野県の山間部で、2018年に実際に起こった事例が報告されている。戦死したとされていた男性の霊が家族の前に現れ続けるという現象について、地元の郷土史研究家が調査を行ったところ、驚くべき事実が判明した。


この男性は太平洋戦争中にフィリピンで戦死したとされていたが、実際にはシベリア抑留を経て1950年代初頭まで生存していたことが、ロシア国立公文書館の資料から確認された。日本の戦死者記録との食い違いは、戦後の混乱期における情報伝達の不備が原因だった。


興味深いことに、この男性の家族は70年以上にわたって毎年お盆に特別な迎え火を焚いており、近所の人々も「帰ってこない霊」として知っていた。霊的現象の報告も複数あり、特に同じ血筋の女性たちが体験することが多かった。


厚生労働省の調査によれば、戦後70年以上が経過した現在でも、戦死の記録と実際の運命に食い違いがある事例は全国で数百件確認されている。特にシベリア抑留者については、ロシア側の資料公開により新たな事実が判明するケースが続いている。


この事例では、霊的現象の報告があった後に行政への問い合わせを行い、結果として戦死者の記録が訂正された。偶然の一致とする見方もあるが、家族の強い念が何らかの形で真実の発見を導いたとする解釈も成り立つ。


民俗学的観点から見ると、お盆の迎え火・送り火は単なる儀式ではなく、生者と死者の魂の交流を可能にする装置として機能している可能性がある。特に未解決の死や不完全な別れを経験した魂にとって、この儀式は重要な意味を持つと考えられている。


また心理学的には、長期間にわたる家族の願いや祈りが、潜在意識レベルで情報収集や問題解決への動機を高めていた可能性も指摘されている。霊的体験をきっかけとして行動を起こすことで、それまで見過ごされていた手がかりに気づくケースは珍しくない。


現在、この男性の戸籍は正式に訂正され、家族の手で改めて供養が行われている。以降、霊的現象の報告はなくなったという。


戦後処理の不備により生じた「宙に浮いた魂」の存在は、現代日本が抱える歴史的課題の一つでもある。お盆という伝統的な習慣が、こうした問題の発見と解決に寄与した稀有な事例として、研究者の間でも注目されている。

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