水神様の招待
夏休みが始まって二週間が経った八月の初旬、私は友人の田中と一緒に彼の母方の実家がある山梨県の小さな村を訪れていた。
田中の祖母が一人暮らしをしているその村は、標高八百メートルほどの山間にあり、清流で有名な桂川の源流近くに位置していた。村の中心には樹齢数百年とされる巨大な欅の木があり、その根元に小さな祠が祀られていた。
「あの祠には水神様が祀られているんだ」
田中が説明してくれた。
「昔からこの村の人たちは、川で事故に遭わないよう水神様にお参りするのが習慣なんだって」
祖母の家は築百年を超える古民家で、縁側からは桂川の支流が見渡せた。透明度の高い美しい川だった。
「川遊びするなら気をつけなさいよ」
祖母は私たちに注意を促した。
「特にお盆の時期は水神様がお怒りになりやすいからね。毎年必ず誰かが川に呼ばれるんだ」
「呼ばれる?」
私が聞き返すと、祖母は険しい表情になった。
「溺れるってことさ。この川は浅く見えるけど、所々に深い淵がある。特に水神様の祠の下流五十メートルのところにある『神渕』は、底が見えないほど深いんだ」
その日の午後、私たちは川遊びに出かけた。八月とはいえ山の川は冷たく、足を浸けただけで身が引き締まる思いだった。
川沿いを歩いていると、祖母が言っていた神渕が見えてきた。確かに他の場所とは水の色が違い、深緑色に淀んでいた。淵の周りには注連縄が張られ、白い紙垂が風に揺れていた。
「ここが神渕か」
田中がつぶやいた時、水面に何かが映った。私たちは身を乗り出して覗き込んだ。
水底に人影のようなものが見えた。最初は水草かと思ったが、それは確実に人の形をしていた。しかも一人ではない。数体の人影が水底で揺らめいていた。
「これ、人じゃない?」
私が震え声で言うと、田中は顔を青ざめさせた。
「まさか。でも…確かに人みたいに見える」
その時、水面に波紋が広がった。誰も石を投げていないのに、まるで下から何かが上がってくるかのように。
私たちは慌てて祠に向かって走った。そして水神様にお参りし、さっき見たものについて謝罪した。理由はわからないが、そうしなければいけないような気がしたのだ。
夕方、祖母に神渕で見たことを話した。
「ああ、やはりな」
祖母は深くため息をついた。
「あの淵には昔から『お招き』があるんだ。水神様が気に入った人を水の中に招待するって言い伝えがある」
「招待?」
「水神様の元へ招かれるってことさ。つまり…」
祖母は言葉を濁したが、意味は明らかだった。
その夜、私は不思議な夢を見た。透明な川の中を歩いている夢だった。水の中なのに息ができ、魚たちが私の周りを泳いでいた。川底は白い砂で覆われ、所々に美しい貝殻が落ちていた。
夢の中で私は神渕へと向かっていた。近づくにつれ、水の色が深い青に変わっていく。そして淵の中心に着くと、水底から光る階段が現れた。階段は螺旋状に下へと続いている。
誘われるように階段を下りていくと、水中とは思えない美しい御殿が現れた。珊瑚でできた柱、真珠で飾られた天井、水晶の床。そして玉座には美しい女性が座っていた。
「よく来てくださいました」
女性は微笑みかけた。声は水の中でも清らかに響いた。
「私はこの川の主、水神です。あなたのような清らかな魂をお待ちしていました」
「僕を待っていた?」
「はい。毎年お盆の時期に、特別にお選びした方をお招きしているのです。永遠にここで私と暮らしませんか」
水神の女性は手を差し伸べた。その手に触れようとした瞬間、私は目を覚ました。
朝になって田中にその夢の話をすると、彼も同じような夢を見たという。ただし、彼の夢では水神は老人の姿だったそうだ。
「これはまずいな」
祖母は心配そうに言った。
「お招きの夢を見るということは、水神様があなたたちに目をつけたということだ。今日は絶対に川に近づいてはいけない」
しかし、昼過ぎになると、なぜか川に行きたくてたまらなくなった。頭では危険だとわかっているのに、体が勝手に川の方向を向いてしまう。田中も同じような状態で、二人とも異常な渇きを感じていた。
「水が飲みたい。川の水が」
田中がつぶやいた。
「冷蔵庫にお茶があるよ」
私が言っても、田中は首を振った。
「違う。川の水じゃなきゃだめなんだ」
私も同じ気持ちだった。川の水以外では渇きが癒されない気がした。
祖母が外出している隙に、私たちは川へ向かった。頭では「行ってはいけない」とわかっているのに、足は勝手に動いた。
神渕に着くと、水面が異常に美しく見えた。まるで鏡のように輝いている。その水面に私たちの顔が映ったが、映った顔はなぜか幸せそうに笑っていた。
「入ろう」
田中が言った。
「でも危険だって祖母さんが…」
「大丈夫。水神様が招待してくれているんだから」
田中は注連縄をくぐって淵に足を向けた。私もそれに続こうとした時、後ろから大きな声が響いた。
「こら!そこで何してる!」
振り返ると、村の男性が二人、こちらに向かって走ってきた。
「危ない!そこから離れろ!」
男性たちは私たちを淵から引き離し、強制的に祠の前に座らせた。
「水神様、申し訳ございません。この子たちをお許しください」
男性たちは祠に向かって深々と頭を下げた。
「お前たち、今何を考えていた?」
年配の男性が私たちに尋ねた。
「水が飲みたくて…あの水がとても美しく見えて」
私が答えると、男性は息を呑んだ。
「やはりお招きを受けていたのか。危ないところだった」
その後、私たちは村の集会所に連れて行かれた。そこには祖母と村の長老たちが集まっていた。
「毎年お盆になると、必ず誰かが水神様のお招きを受ける」
村長らしき老人が説明した。
「お招きを受けた人は、水神様の元へ行きたくて仕方がなくなる。そして神渕に入り、そのまま戻らなくなるんだ」
「戻らなくなるって…」
「溺れ死ぬということだ。しかし遺体は決して見つからない。水神様の元で永遠に暮らすことになるからな」
長老は続けた。
「昨年も東京から来た大学生が同じ目に遭った。一昨年は隣村の高校生だった。皆、お招きの夢を見た後、神渕に入って行方不明になった」
私たちは背筋が凍る思いだった。もし村人に止められなかったら、私たちも同じ運命をたどっていたかもしれない。
「でも、どうして僕たちが?」
田中が震え声で尋ねた。
「水神様は清らかな魂をお気に入りになる。特に若い男性を好まれる傾向がある」
長老は古い記録を開いた。
「過去百年の記録を見ると、お招きを受けるのは十五歳から二十五歳の男性がほとんどだ。そして皆、心の優しい、純粋な人間だった」
その日の夜、村では特別な祈祷が行われた。水神様の怒りを鎮め、私たちを許してもらうための儀式だった。村人総出で祠の前に集まり、一晩中お経を唱えた。
不思議なことに、祈祷が始まると私たちの中にあった異常な渇きは消えた。川に向かいたいという衝動もなくなった。
翌朝、私たちは神渕を見に行った。昨日まで美しく見えていた水面は、ただの暗い淵にしか見えなかった。水底の人影も見えない。
「水神様が諦めてくださったのだろう」
祖母は安堵の表情を浮かべた。
「でも、もう二度とお盆の時期にこの川に近づいてはいけない。水神様は執念深いからな」
東京に帰る日、私たちは最後に水神様の祠にお参りした。今回は命を助けていただいたお礼と、二度とご迷惑をかけませんという誓いを込めて。
祠の前でお参りしていると、川の方から女性の歌声が聞こえてきた。美しい、しかしどこか悲しげな歌声だった。振り返ると、神渕の水面に白い着物の女性の姿がぼんやりと映っていた。
女性は私たちを見つめ、そして静かに首を振った。まるで「今度は逃がさない」と言っているかのように。
それから五年が経った今も、私は夏になると川の夢を見る。あの美しい水中の御殿の夢を。そして目を覚ますと、異常な渇きを感じるのだ。川の水が飲みたくて仕方がない渇きを。
田中も同じだという。私たちは約束した。絶対にお盆の時期には川に近づかないことを。たとえどんなに水が恋しくなっても。
でも時々思う。もしあの時、村人に止められなかったら、今頃私たちはあの美しい水中の御殿で、永遠の時を過ごしていたのかもしれない。それは果たして不幸なことだったのだろうか。
水神様の招待を受けた者は、きっと一生その誘惑と戦い続けなければならないのだろう。
――――
山梨県北杜市の山間部に位置する集落では、実際に「水神の淵」と呼ばれる深い淵があり、お盆の時期になると必ず水難事故が発生するという記録が残されている。地元の消防署の統計によると、過去三十年間でこの淵周辺では十七件の水難事故が発生し、そのうち十一件で遺体が発見されていない。
特に興味深いのは、事故に遭った人々の証言である。生存者の多くが「川の水を飲みたくて仕方がなくなった」「水面が異常に美しく見えた」「水中に光る建物が見えた」といった共通した体験を報告している。
2015年、東京大学の心理学研究チームがこの現象を調査した際、事故現場周辺で特殊な音波が検出された。地下水脈の流れが岩盤を通る際に発生する超低周波音が、人間の脳に幻覚や異常な行動を引き起こす可能性があると指摘されている。
また、地質調査では淵の深さが三十メートル以上あることが判明し、底部は複雑な洞窟状になっていることもわかった。水温も周囲より五度以上低く、一度沈んだ物体は水流の関係で浮上しにくい構造になっているという。
民俗学的な観点から見ると、この地域では江戸時代から「水神様の嫁取り」という伝承があり、毎年特定の時期に若者が水神に選ばれて連れて行かれるという話が語り継がれていた。実際の古文書にも「盆の頃、川にて不慮の死を遂げる者多し」という記述が複数見つかっている。
地元では現在でも、お盆前になると村の青年団が淵周辺を巡回し、観光客や帰省者に注意を呼びかけている。