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怖い話  作者: 健二
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水神様のお迎え


夏の日差しが容赦なく照りつける八月十二日、私は母の実家がある長野県の山間部にいた。高校三年生の夏、受験勉強に疲れた私を心配した母が、「少し環境を変えて勉強したら」と祖母の家に送り込んだのだ。


母の実家は築百年を超える古い農家で、裏手には小さな川が流れていた。その川は村の人々から「お水神様の川」と呼ばれ、古くから大切にされてきた。


「悠太、明日はお盆の入りじゃけん、川の掃除を手伝ってもらうよ」


祖母は方言混じりでそう言った。八十歳を超えているとは思えないほど背筋がピンと伸びている。


「川の掃除?」


「ああ、水神様をお迎えする準備じゃ。毎年お盆には水神様が川を下ってこられるんでな」


その夜、私は二階の客間で参考書を開いていた。窓を開けると川のせせらぎが聞こえ、意外と集中できそうだった。しかし、夜が更けるにつれて、川の音が変化していることに気づいた。


最初は普通のせせらぎだったのが、次第に人の囁き声のように聞こえ始めた。耳を澄ますと、確かに何かを話しているような音が混じっている。


「気のせいだな」


そう呟いて勉強に戻ったが、今度は窓の外から視線を感じた。恐る恐る窓に近づいて外を見ると、月明かりに照らされた川面に何かの影が映っていた。人のような形だったが、すぐに消えてしまった。


翌朝、祖母と一緒に川の掃除に向かった。川幅は三メートルほどで、水深も膝下程度の浅い川だった。しかし、水は驚くほど透明で冷たく、小さな魚が泳いでいるのが見えた。


「この川にはな、昔から水神様が住んどられるんじゃ」


祖母は川底の落ち葉を取り除きながら説明してくれた。


「水神様?」


「ああ、村を守ってくださる神様じゃ。でもな、お盆の時期だけは少し様子が違うんじゃ」


「どう違うの?」


祖母は手を止めて、川の上流を見つめた。


「お盆には、水神様が迷子になった魂を連れて帰ってこられるんじゃ。でもな、時々、帰っちゃいけない魂も混じっとる」


その意味がわからないまま、私たちは川掃除を続けた。川底から古い陶器の破片や、錆びた金属片が出てきた。祖母はそれらを丁寧に拾い上げ、「お疲れ様でした」と呟きながら川岸に並べた。


「これは何?」


「昔、川で亡くなった人たちの持ち物じゃ。毎年少しずつ出てくるんじゃよ」


午後になって、村の他の人たちも川掃除に参加し始めた。しかし、彼らは私を見るたびに複雑な表情を見せた。まるで何か知っているが言えないような、そんな表情だった。


「あの子に似とるねえ」


「そうじゃなあ、まさにそっくりじゃ」


老人たちがひそひそと話している声が聞こえた。


夕方、川掃除が終わると、川岸に小さな祭壇が設けられた。お供え物として白い花と清酒、そして白い布が供えられる。


「これが水神様をお迎えする準備じゃ」


その夜、私は再び二階で勉強していた。しかし、昨夜と同じように川の音が人の声に聞こえ始めた。今度は意を決して窓から身を乗り出して川を見下ろした。


月明かりの下、川面に複数の人影が映っていた。白い着物を着た女性、作業着姿の男性、そして学生服を着た少年。彼らは川の流れに沿ってゆっくりと移動していく。


私は急いで一階に降り、祖母に報告した。


「おばあちゃん、川に人が…」


「見えたんかい?」


祖母は驚いた様子だった。


「やっぱりあんたにはその血が流れとるんじゃなあ」


「血?」


「あんたのお母さんにも昔、見えとった。でもな、途中から見えんくなった」


祖母は仏壇から古いアルバムを取り出し、一枚の写真を見せてくれた。そこには私とそっくりな少年が写っていた。


「これはあんたのお母さんの弟、つまりあんたの叔父さんじゃ」


「母さんに弟がいたの?」


「三十年前、この川で亡くなったんじゃ。お盆の夜にな」


私の背筋に寒気が走った。


「その叔父さんは、お盆になると水神様の お迎えを手伝いに帰ってくるんじゃ。でもな、時々間違えて、まだ死んじゃいけない人を連れて行こうとすることがあるんじゃ」


「まだ死んじゃいけない人って?」


「あんたみたいに、その血を引いた若い男の子じゃよ」


その時、外から川の水音が急に大きくなった。まるで川が溢れそうになっているような音だった。


「いかん、今夜は水位が上がっとる」


祖母は慌てて立ち上がった。


「悠太、絶対に川に近づいちゃいかん。今夜は特に危険じゃ」


しかし、川の音に混じって聞こえる声が、なぜか私を強く引きつけた。まるで「おいで」と呼んでいるように聞こえる。


真夜中過ぎ、私はベッドで眠れずにいた。川の音がますます大きくなり、時々人の笑い声も混じっている。我慢できずに窓から外を見ると、川の水位が昼間の倍以上になっていた。


そして川面には、昨夜よりもはるかに多くの人影が見えた。老若男女、様々な時代の服装をした人々が川に沿って歩いている。その中に、写真で見た叔父らしき少年の姿もあった。


叔父は私を見上げ、手招きをしている。その表情は優しく、まったく怖くない。むしろ懐かしい感じがした。


気がつくと、私は玄関に立っていた。いつの間にか服を着て、川に向かおうとしていた。祖母の警告は頭にあったが、叔父に会いたい気持ちの方が強かった。


川岸に着くと、水は私の膝まで来ていた。昼間の澄んだ水とは違い、夜の川は黒く、底が見えなかった。


「悠太」


振り返ると、学生服を着た少年が立っていた。写真で見た叔父だった。年齢は私と同じくらいに見える。


「叔父さん?」


「ああ、久しぶりだな。君はお母さんにそっくりだ」


叔父の声は優しく、生きている人と変わらなかった。


「君に会えてうれしいよ。こちらの世界は少し寂しくてな」


「こちらの世界?」


「ああ、でも君がいれば寂しくない。一緒に来ないか?」


叔父は川の方を指した。そこには大勢の人々が立っており、皆私を見て微笑んでいた。


「お盆の間だけでも、一緒にいよう」


その言葉に心が動いた時、後ろから声が聞こえた。


「悠太!」


振り返ると、祖母が川岸に立っていた。


「そこから離れなさい!」


「でも、叔父さんが…」


「それは本当の弘樹(叔父の名前)じゃない!」


祖母の声は震えていた。


「本当の弘樹なら、あんたを川に連れて行こうなんてせん!」


その瞬間、叔父の表情が変わった。優しかった顔が歪み、目が黒く光った。


「おばあちゃん、邪魔しないで」


叔父の声も変わり、低く威圧的になった。


「あんたは水の事故で死んだ弘樹の姿を借りた別の何かじゃ!本当の弘樹は、家族を川に連れ込んだりせん!」


祖母は川に足を踏み入れ、私に向かって手を伸ばした。


「悠太、こっちに来なさい!」


私が祖母の方に向かおうとした時、偽の叔父が私の手首を掴んだ。その手は氷のように冷たく、力が異常に強かった。


「一緒に来るんだ、悠太」


川の中の人影たちが一斉に私を見つめ、手招きをし始めた。彼らの顔は皆同じように歪んでいた。


「水神様、お願いします!この子をお救いください!」


祖母が川に向かって必死に祈り始めた。


その時、川の上流から強い光が差し込んできた。月光とは違う、青白い神々しい光だった。光と共に、川の水が急速に引いていく。


偽の叔父の手から力が抜け、私は祖母のもとへ走ることができた。振り返ると、川の中にいた人影たちは皆消えており、偽の叔父も薄くなっていく。


「本当の水神様がいらしたんじゃ」


祖母は安堵の表情を浮かべた。


「あれは水神様の名を騙る悪い霊じゃった。川で死んだ人の恨みが集まって、水神様の真似をしとったんじゃ」


川は元の水位に戻り、清らかなせせらぎの音だけが響いていた。


翌朝、村の人たちが集まって川の様子を見に来た。老人の一人が私を見て言った。


「昨夜は大変じゃったなあ。でも、本当の水神様がお救いくださったんじゃ」


「本当の水神様?」


「ああ、この川には確かに水神様がいらっしゃる。でもな、時々悪い霊がその威光を借りて悪さをするんじゃ」


その日の夕方、川岸の祭壇に新しいお供え物が増えていた。村人たちが真の水神様への感謝を込めて供えたものだった。


私がお盆を過ごしたその年から、川での事故は一件も起きていないという。悪い霊が祓われ、本当の水神様が村を守ってくださっているからだ。


受験勉強のために来た祖母の家で、私は勉強以上に大切なことを学んだ。先祖や神様への敬意、そして本物と偽物を見極める目の大切さを。


数年後、大学生になった私は民俗学を学び、各地の水神信仰を研究するようになった。どこの村にも似たような話があり、水辺での霊的体験は決して珍しいことではないとわかった。


しかし、あの夜体験したことは、単なる民俗学の研究対象ではない。私の生命を救ってくれた、真の神様の存在を教えてくれた貴重な体験だった。


今でもお盆の時期になると祖母の家を訪れ、川の掃除を手伝っている。川は今も清らかに流れ、本当の水神様が静かに村を見守っていることを感じることができる。


あの夜以来、私には二度と川の中の人影は見えなくなった。しかし時々、川面にキラリと光るものが見える時がある。それは水神様が「大丈夫だよ」と微笑みかけてくれているような、優しい光なのだ。


――――


長野県北部の山間地域で、2018年8月に実際に起きた事件が、この物語の背景にある。この地域では古くから水神信仰が根強く、特にお盆の時期には川の清掃と水神様への供養が行われてきた。


事件が起きたのは、ある家族が帰省で訪れていた際のことだった。高校生の男子が深夜に突然家を出て、裏手の川に向かった。家族が気づいて追いかけると、彼は川の中に立ち、「誰かが呼んでいる」と繰り返していたという。

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