「煙は非常階段から上へ」
新宿・歌舞伎町のはずれに、十階建ての雑居ビルが一本、黒ずんだまま取り残されている。跡地再開発の準備で今月末に解体される予定だが、区の文化財課が「火災防災史の資料として内部を3D保存しておきたい」と言い出した。私は点群測量を請け負う小さな会社で働くオペレーターで、きょう深夜、最後の計測にやって来た。
同行者は同僚の岸本。彼は機材運びのついでに廃墟写真を撮るのが趣味で、「ここは2001年九月一日、44人が亡くなったあのビル火災の隣棟だ。延焼はしなかったけど壁が焦げてる」と目を輝かせている。私にはその熱量が理解できない。
午前一時、外階段を上る。赤錆びた手すりが汗ばんだ掌を冷やした。八階の元スナック「コーラル」の扉をこじ開けると、むっとする薬品臭。岸本が「カビじゃない。焦げた内装材の臭いが二十年以上抜けないんだ」と解説した。
私は床中央にレーザースキャナを立て、360度回転を開始。レーザーが壁の鏡面に当たり、紫のフレアが跳ねた。するとPCのプレビューに、リアルタイムで生成される点群の中へ“何か別の層”が混じり始めた。赤い霧のような粒子がカウンター奥で渦を巻き、輪郭は燃えさしの壁紙とぴったり重なる。
「温度センサー異常・57℃」。室温は20℃に満たない。岸本がレンズを覗き込み「レンズが汗をかいてる」と呟いた。
店の奥、非常口の赤ランプがぼうっと明滅した。ふいに緑色が反転し、赤い走査線だけが天井を這う。Jアラートの試験電波にも似た単音がスピーカーから漏れた。
“上の階が燃えています。非常階段を使用しないでください”
2001年当夜、実際に流れた誤案内放送と同じ文言だった。当時、この誤放送で多くの客が屋内避難を選び、行き止まりの踊り場で煙に巻かれた――と報告書にあった。
岸本が鼻を利かせ、「プラスチックが溶ける臭い、わかる?」と肩をつかんだ。私はPC画面から目を離せない。霧の点群に、他の災禍の輪郭が混じり出したのだ。
木造平屋の間取り、壁一面のセル画棚――2019年7月、京都アニメーション第1スタジオ。白衣の診察室、雑誌ラック、狭い待合――2021年12月、大阪北新地クリニック。炎の地図が世界のビル火災を縫い合わせ、一つの迷路にするように広がっていく。
「岸本、電源を落として!」
彼は三脚に手を伸ばしたが、機械は勝手に回転を速めた。緑光のラインが床・壁・天井をスキャンし、瞬時に点群データを吸い上げる。まるで“抜け道を探る”ように。
そのとき、廊下の暗闇で携帯が震えた。着信履歴に番号はない。受けると、遠くで雑踏がざわめく。
「押さないで! 転ぶ!――」
昨年の10月、梨泰院の雑踏事故で一斉にSNSへアップされた叫び声。雑踏の音が通話口から流れ込み、同時にビル全体が軋んだ。岸本のカメラフラッシュが点き、光の刹那、非常階段の踊り場にスーツ姿の若者が何十人も折り重なっている絵が浮かんだ。だが次の瞬間には、誰もいない。
私は岸本の腕をつかんで走った。屋上へ向かう階段は、上へ行くほど冷たく、霧が薄い。避難できるかもしれない。が、九階踊り場の防火扉は鎖で縛られていた。チェーンの鍵穴に“2001/9/1”と刻印がある。――まるで閉じ込められた時間そのものが、扉に成り代わっている。
背後で機械音。スキャナが階段を自走するように追いかけてくる。タブレット画面には新しいタイムスタンプが追加されていた。
「2024/05/26 01:42 Shinjuku_Kabukicho_Revised」
私たちが“今”いる日時だ。
岸本が金ノコを見つけ、チェーンを切ろうとした。その刃が火花を散らした瞬間、鉄扉が突然、外へ向かって開いた。夜風がもわっと吹き抜け、歌舞伎町のネオンが覗く。だが踏み出そうとすると膝がすくんだ。足場がない。ビル外壁がすでに剥がされ、鉄骨だけが空中に突き出している。下では解体作業用クレーンが寝息のように油鳴りを上げていた。
「戻るしかない!」
しかし戻れば炎の迷路。私は鉄骨をまたぎ、岸本の手を引いた。夜景の風が熱も霧も吹き払う。二人で渡りきった先は隣の新築ホテルの屋上だった。振り返ると、私たちがいた雑居ビルの階段踊り場は真っ黒な穴に変わり、揺れる火の輪郭だけが残っていた。
翌朝、現場監督に事情を話すと、解体中のビルで「非常階段ごと壁が抜けるなどあり得ない」と笑われた。だが測量データのログには、存在しないはずの“屋外鉄骨”が詳細にスキャンされ、表面温度が48℃と記録されていた。
岸本は会社に辞表を出した。「もう廃墟は撮らない。生きた人間だけを撮る」と言って。私は機材倉庫で問題のスキャナを分解したが、メモリには1行だけ残っていた。
〈EXIT_CLOSED_NEXT_KYOTO〉
もし来月、京阪神のどこかで新しいライブハウスがオープンし、派手な炎演出を計画している現場にこのスキャナが転売されたら――。考えるのをやめた。
これを読んでいるあなたが、地下のバーや小劇場を訪れるときは、ぜひ三つだけ確認してほしい。
① 非常口のランプが“緑”で点いているか。
② ドアが外開きか内開きか。
③ 階段に物が置かれていないか。
どれか一つでも欠けていたら、あなたの足元に、世界中で閉じ込められたままの叫び声が絡みついてくる。火は遠い場所で燃えていても、煙は一瞬で時空を越えて届くのだから。
(了)
――現実に起きた火災・事故――
・2001年9月1日 新宿歌舞伎町雑居ビル火災(東京都・44名死亡)
・2019年7月18日 京都アニメーション第1スタジオ放火事件(京都府・36名死亡)
・2021年12月17日 北新地ビルクリニック放火事件(大阪府・26名死亡)
・2022年10月29日 韓国・梨泰院雑踏事故(159名死亡)