帰らざる客
八月十三日、お盆の入りの日。私は五年ぶりに母方の祖父母が住む鹿児島県の離島を訪れていた。高校二年の夏休み、都会の喧騒から離れた静かな島での数日間は、私にとって一種の現実逃避だった。
「麻衣、久しぶりじゃねぇ。すっかり大きくなって」
桟橋で出迎えてくれた祖父は、私が小学生の頃から変わらぬ笑顔を見せていたが、その背はずいぶんと小さくなったように感じた。祖父の軽トラックに乗り込み、狭い島の道を進む。窓の外には、懐かしい景色が広がっていた。
「お母さんは来られんかったのか?」
「うん、今年は仕事が忙しくて」
実際には、母は祖父母との関係がぎくしゃくしていた。五年前に起きた親族間のいざこざ以来、母は一度もこの島に戻っていない。私自身、詳しい事情は知らされていなかった。
祖父の家は島の高台にあり、周囲を木々に囲まれていた。古い木造の家は、時間が止まったように昔のままだった。縁側には風鈴が下がり、風が吹くたびに涼しげな音を奏でる。
「おばあちゃんは?」
「少し具合が悪くてな。二階で休んどる」
祖父はそう言って、私を二階の客間に案内した。窓からは海が見え、潮の香りが部屋に満ちていた。
「今日はゆっくり休みなさい。明日からお盆の準備を手伝ってもらうけんね」
翌朝、祖母の姿はなかった。祖父によると、祖母は早朝から親戚の家を回っているという。
「お盆は忙しいからな。今日は精霊棚を作るのを手伝ってくれんか」
精霊棚とは、先祖の霊が帰ってくる場所として設ける祭壇のことだ。祖父と一緒に、リビングの一角に小さな棚を設置し、白い紙で覆った。その上には、供物や盆提灯を置いた。
「この提灯は、先祖が道に迷わんように灯すんだ」祖父は古い提灯に火を灯しながら説明した。「特に今年は大事なお客さんが来るからな」
「大事なお客さん?」
祖父は答えず、にっこりと笑うだけだった。
その日の夕方、島の墓地を訪れた。墓石を清め、新しい花を供える。祖父は長い間、墓石の前で目を閉じて祈っていた。
「帰るぞ、麻衣」
墓地を後にする際、一瞬だけ背後から誰かに見られているような感覚があった。振り返ると、夕日に照らされた墓石の影が長く伸びていた。それだけだった。
夕食後、祖父は井戸端で「迎え火」を焚いた。先祖の霊が迷わず家に戻れるようにするための火だ。炎が揺らめく様子を見ていると、なぜか切なさがこみ上げてきた。
「祖父さん、母さんが来ない本当の理由は何なの?」
祖父の手が一瞬止まった。
「昔のことじゃ。水に流したことじゃよ」
それ以上は話してくれなかった。
その夜、なかなか眠れなかった。窓の外から聞こえる波の音と虫の声。そして、時折聞こえる風鈴の音。その中に、かすかに人の足音が混じっているような気がした。
午前零時を回った頃、はっきりと廊下を歩く音が聞こえた。「祖父さん?」と思いながらドアを開けると、そこには誰もいなかった。しかし、階段の方から光が漏れていた。
恐る恐る階段を降りると、リビングの精霊棚の前に、見知らぬ老婆が座っていた。白い着物を着た彼女は、提灯の明かりに照らされ、棚の上の写真を眺めていた。
「あの…」
声をかけると、老婆はゆっくりと振り返った。その顔は皺だらけで、目は深く窪んでいた。しかし、どこか見覚えのある顔立ちだった。
「麻衣ちゃんかい。大きくなったねぇ」
老婆の声は、まるで遠くから聞こえてくるようだった。
「あなたは…」
「わしは春子。お前のひいおばあさんじゃよ」
動悸が激しくなった。ひいおばあさんの春子は、私が生まれる前に亡くなっていたはずだ。
「嘘…そんな」
「驚かせてごめんね。お盆にはこうして帰ってくるんじゃよ。普通は見えんのじゃが、お前は霊感が強いのかもしれん」
震える足で後ずさりしながら、「祖父さん!」と叫ぼうとした時、背後から祖父の声がした。
「大丈夫じゃ、麻衣。母さんはお客さんじゃよ」
祖父は老婆―私のひいおばあさんに向かって深々と頭を下げた。
「母さん、長い間待たせてすまんかった」
何が起きているのか理解できないまま、私は祖父と老婆のやりとりを見守った。二人は昔話をしているようだったが、その内容は次第に真剣なものになっていった。
「あの件については、もう解決せんといかん。五十年も経ったんじゃからな」祖父が言った。
「そうじゃな。あの子も苦しんどるじゃろう」老婆は悲しそうな顔で応えた。
翌朝、目を覚ますと、昨夜のことが夢だったのではないかと思った。しかし、リビングの精霊棚の前には、知らない花が供えられていた。
「祖父さん、昨日の夜…」
「あぁ、母さんが来てくれたんじゃな」祖父は当たり前のように答えた。「今日は、お前のお母さんに電話してくれんか」
戸惑いながらも、母に電話をした。久しぶりに聞く母の声は、どこか疲れているようだった。
「お母さん、おじいちゃんが話があるって」
電話を祖父に渡すと、彼は深呼吸をして話し始めた。
「美津子、すまんかった。あの時のことは、わしが間違っとった。もう許してくれんか」
電話の向こうで、母が泣き始めた。どうやら二人は和解したようだった。
その晩、再び老婆―ひいおばあさんが現れた。今度は恐怖より、不思議な安心感があった。
「おばあさん、母さんと祖父さんは和解したみたい」
「よかった。これで成仏できるわい」
「成仏?」
「実はな、わしはずっと心配でこの家に留まっとったんじゃよ。五十年前、わしが死んだ時、財産のことで揉めてな。美津子のお母さんと、わしの息子―お前の祖父さんが仲違いしてしもうた。それがずっと解決せんままじゃった」
彼女の話によると、彼女は家族の和解を願って、毎年のお盆に戻ってきていたという。しかし、誰も彼女の姿を見ることができず、声も届かなかった。
「今年は特別じゃった。お前が来てくれて、わしの姿が見えた。そして、息子と孫が和解できた」
ひいおばあさんは穏やかな笑顔を浮かべた。提灯の光が彼女の体を通り抜け、次第に透明になっていくのが見えた。
「ありがとう、麻衣ちゃん。もう心配ないよ。わしはこれで安心して旅立てる」
彼女の姿は提灯の光と共に消えていった。残されたのは、かすかな花の香りだけだった。
十六日、送り火の日。祖父と一緒に、浜辺で小さな灯籠を海に流した。
「さようなら、おばあさん」
風が灯籠の炎を揺らし、それは波に乗って遠ざかっていった。
翌日、母が島にやってきた。五年ぶりに再会した母と祖父の顔には、晴れやかな表情があった。三人で墓参りに行き、ひいおばあさんの墓前で手を合わせた。
「麻衣、ありがとう」母は涙ぐみながら言った。「あなたが来てくれなければ、私はきっとこの島に戻ってこなかった」
その日の夕方、ふと窓の外を見ると、庭の隅に白い着物を着た老婆の姿が見えた気がした。目を凝らすと、それは白い花が咲く木だった。
帰りの船に乗る前、祖父が私に古い写真を見せてくれた。そこには若かりし頃のひいおばあさん・春子の姿があった。確かに、あの夜見た老婆と同じ顔だった。
「麻衣、今度は来年の春に来なさい。桜の季節は美しいからね」
祖父の言葉に頷きながら、私は空を見上げた。夏の青空の下、一羽の白い鳥が島を離れ、遠くへと飛んでいった。
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鹿児島県の離島では、今も古くからのお盆の風習が残っている地域がある。特に、先祖の霊が家に戻ってくるとされる「お盆の入り」の十三日と、霊を送り出す「送り盆」の十六日には、様々な儀式が行われる。
2017年、ある島の古老が語ったところによると、霊感の強い人は実際に先祖の霊を見ることがあるという。特に、家族間に未解決の問題がある場合、霊は成仏できずに家に留まり続けることがあるそうだ。
また、家族の和解を望む故人の思いが、不思議な巡り合わせを生み出すケースも報告されている。霊媒師の中には、お盆の期間中に「メッセンジャー」として働く人々がいて、故人からのメッセージを家族に伝えることもあるという。
島の寺院の住職によれば、「お盆の期間は、現世と霊界の境界が薄くなる時期」であり、「先祖の思いが強ければ強いほど、その存在を感じやすくなる」とのことだ。
現代科学では説明できない現象かもしれないが、離島の古い集落では、今なお先祖との交流を大切にする文化が息づいている。そして時に、この物語のように、家族の絆を取り戻すきっかけとなることがあるのだ。