氏神様の裁き
私が祖母の家に住むことになったのは、高校2年の夏休み前だった。両親の海外赴任が決まり、私だけは受験のため日本に残ることになったのだ。
祖母の家は山間の小さな集落にあった。駅から歩いて30分以上かかる不便な場所だったが、祖母は一人でここに住み続けていた。
「咲良、久しぶりね。大きくなったわね」
玄関で祖母が笑顔で迎えてくれた。小柄な体に白髪が目立つが、80歳とは思えないほど元気だった。
「おばあちゃん、お世話になります」
私が最後に来たのは小学生の頃。あれから7年も経っていた。
家は築100年以上の古い民家で、周囲には同じような家が点々と建っていた。集落全体が時間が止まったような静けさに包まれていた。
その日の夕食後、祖母が言った。
「明日は氏神様の夏祭りよ。咲良も一緒に行きましょう」
「氏神様?」
「ええ、この村を守ってくださる神様よ。昔から厳しい神様で、祭りに参加しない家には祟りがあるって言われてるの」
私は内心で笑った。現代にもなって祟りだなんて。でも祖母を傷つけたくなくて、「うん、行くよ」と答えた。
翌日、私たちは集落の奥にある小さな神社へ向かった。鳥居をくぐると、思ったよりも広い境内が広がっていた。人々が集まり始め、提灯の灯りが揺れている。
「おばあちゃん、ここが氏神様を祀ってる神社なの?」
「そうよ。この神様は室町時代から祀られているの。村の安全と豊作を守ってくださるけど、怠ると厳しく罰せられるんだよ」
私は社殿を見上げた。古びた木造の建物だったが、不思議と威厳を感じた。
祭りが始まると、地元の人々が集まり、太鼓が鳴り響いた。私は祖母と一緒に社殿に参拝し、お神酒をいただいた。
その時だった。急に周囲の音が遠のき、社殿の中から低い声が聞こえた気がした。
「違反者を裁く…」
私は振り返ったが、誰も話していなかった。幻聴だったのかもしれない。
祭りが終わり、家に帰る途中、祖母が言った。
「以前ね、この祭りに参加しなかった家があったの。田中さんって家族」
「それで?」
「その家族、一週間後に次々と病気になって、最後は家が火事で全焼したんだよ。氏神様の祟りだって皆言ってた」
「ただの偶然でしょ?」私は科学的に考える高校生だった。「今どき祟りなんて」
祖母は何も言わなかったが、その目に悲しみが浮かんだ。
その夜、私は奇妙な夢を見た。白い着物を着た老人が私を見下ろし、「敬わない者には裁きを」と言っていた。
翌朝、なぜか体がだるく、頭痛がした。熱を測ると38度あった。
「おばあちゃん、ちょっと熱があるみたい」
祖母は心配そうに私の額に手を当てた。
「夏風邪かもしれないね。今日は休んでおきなさい」
ところが、熱は下がるどころか上がる一方だった。次の日には39度を超え、病院に行っても「ウイルス性の感染症でしょう」と言われるだけだった。
三日目の夜、私は高熱で朦朧としていた。半分夢うつつの中、部屋の隅に人影を感じた。目を凝らすと、祭りの夢で見た白い着物の老人が立っていた。
「氏神様を敬わぬ者には裁きを」
老人の声は低く、重々しかった。私は恐怖で声も出なかった。
「あなた…本当にいるの?」やっとの思いで言葉を絞り出した。
「人が信じなくなっても、神は存在する。敬意を示さぬ者には試練を与える」
「私、何か悪いことした?」
「心の中で我を馬鹿にした。祟りを信じないと」
そうだ。私は祖母の言葉を内心で笑っていた。神様はそれを見透かしていたのか。
「ごめんなさい…」私は心から謝った。「どうすれば許してもらえますか?」
老人は答えなかった。代わりに、私の目の前に小さな盃が現れた。中には透明な液体が入っていた。
「これを飲むのが儀式だ。飲めば許そう」
恐る恐る盃を手に取り、私はその液体を飲み干した。不思議なことに、苦くも甘くもなく、水のような味だった。
すると老人の姿は薄れ、「敬いなさい」という声だけが残った。
翌朝、熱は嘘のように下がっていた。体も軽く、すっかり元気になっていた。
「おばあちゃん、なんだか急に良くなったよ」
祖母は安堵の表情を浮かべたが、どこか不思議そうだった。
「それは良かった。でもね、咲良。昨夜、変なことなかった?」
「え?」
「私ね、夜中に水を取りに行ったら、あんたの部屋から話し声が聞こえたの。誰かと話してたでしょ?」
私は昨夜の出来事を話した。祖母は黙って聞いていたが、最後に深いため息をついた。
「それは氏神様だよ。昔から、敬わない者には姿を現すって言われてる。盃を飲んだのは神聖な水。氏神様の慈悲ね」
「でも、おばあちゃん。本当に神様がいるなんて…」
祖母は立ち上がり、古い箪笥から一枚の写真を取り出した。それは白黒の古い写真で、若い男性が写っていた。
「これはお前のお祖父さん。私より先に亡くなったけど、彼もね、氏神様を信じなかったの」
祖母の話によると、祖父も最初は祭りを馬鹿にしていたという。そして同じように病気になり、氏神様が現れた。しかし、祖父は盃を拒んだ。その後、祖父は回復することなく亡くなったという。
「だから私は必ず祭りに参加してきたの。氏神様は優しいけれど、敬わないと厳しい方なの」
それから私は神社に毎日お参りに行くようになった。不思議なことに、神社にいると心が落ち着くのを感じた。
夏休みが終わる頃、祖母は私に一つの箱を渡した。
「これはあなたのお守り。氏神様の力が宿っているから、大事にしなさい」
箱の中には小さな木彫りの人形があった。表面には見たこともない文字が刻まれていた。
「この文字は?」
「古くからの呪文よ。災いを遠ざける力がある」
私は半信半疑だったが、その人形を大切に持ち帰ることにした。
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それから3年が経った。私は大学生になり、東京で暮らしている。あの夏以来、不思議と病気一つせず、試験も順調だった。
先日、地元の友人から連絡があった。
「知ってる?山下さんの家、全焼したんだって」
山下さんは祖母の近所に住む家族だった。
「えっ、なんで?」
「原因は分からないんだけど、実はその前に家族全員が体調を崩してたらしいよ。それから、今年の夏祭り、山下さん家族だけ参加してなかったって」
私は背筋が凍った。そして自分の部屋に置いてある木彫りの人形を見た。その瞬間、かすかに「敬いなさい」という声が聞こえた気がした。
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実際、日本各地には氏神様を敬わなかった家に不幸が続いたという言い伝えが数多く残っています。特に長野県の山間部では、ある集落で祭りに3年連続で不参加だった家族が相次いで病に倒れ、最終的に家が全焼したという記録が残されています。専門家は偶然の一致と説明しますが、地元の人々は今でも氏神様の祟りだと信じ、毎年欠かさず祭りに参加しています。また、熱病にかかった人が夜中に老人の姿をした神様を見るという報告も複数あり、民俗学者の間では「氏神顕現」として研究されています。現代でも神社の近くに住む人々は、目に見えない力に対する敬意を忘れていないのです。