「終電が通らない線路で」
午前一時、東京メトロ丸ノ内線の旧・中野検車区引込線に私は立っていた。ホームからは見えない盲腸のような短いトンネルで、二〇一三年にポイントが撤去されて以来、車両は一度も入っていない。
私は鉄道会社から依頼を受けた音響エンジニアで、車内放送のVR教材を作るため“誰もいない地下鉄トンネルの無響雑音”を録って欲しいと言われた。同行者は保安担当の南雲技師。ただし彼は夜間作業の立会だけで、マイクを立てるのは私ひとりだ。
分岐を封じられたレールは、赤錆と油膜が斑に固まり、足下のバラストは湿っている。コンクリ壁の向こうで、丸ノ内線の終電が過ぎる音が遠くに消えた。やがて絶対静寂。私はパラボラ型の集音マイクを三脚に据え、RECボタンを押した。レベルメーターのLEDがひたひたと緑を埋め、最後の一目盛りで不意に振り切れた。何かが鳴っている。
ヘッドホンを当てると、ごく低く、風とも声ともつかないハウリングが耳たぶを震わせる。地上のノイズかと思った瞬間、地下鉄のスピーカー特有の帯域制限――3.4kHzの金属的な“かすれ声”が混ざった。
「霞ヶ関……たすけて……目が、痛い……」
一九九五年三月二十日、地下鉄サリン事件で駅員が無線で残した言葉と、節まで同じだった。私は編集の仕事で何度も聴かされた実際の録音を思い出し、背筋に汗が滲んだ。しかしここは丸ノ内線の、しかも営業線外。あの日ガスが撒かれたのは日比谷線と千代田線だ。距離も系統も違う。
南雲が懐中電灯を私の顔に当て、「何か入ったか?」と訊く。私は首を振ったが、肝心のマイクはまだレベルを振り切ったまま“何者かの息づかい”を拾っている。
録音を再開しながら、私はケーブルを手繰り、さらに奥へ進んだ。レールの尽きた先は深い闇。壁に張られた鋼板には「60.24kmS」の手書き表示。その下に白いチョークで“JAL123”と殴り書きがある。それは一九八五年、日航ジャンボ機墜落現場の尾根番号を表すサインと筆跡が酷似していた。
飛行機事故のはずなのに、なぜ地下鉄の壁面に? 南雲は「いたずら書きだろ」と済ませたが、私は指で触れた瞬間、静電気のような熱を覚えた。
ヘッドホンの奥で音が切り替わる。
「酸素マスクが……落ちない……」
墜落直前に録られたとされるコックピットボイスレコーダの途切れ途切れの断末魔。それを私は国交省の講習ビデオで聴いたことがある。
私は録音を止め、PCの波形を拡大した。ノイズフロアの底に、数字のパターンが埋め込まれている。タイムコードの書式で読むと「2024/06/05 00:23」。つまり今夜の、まだ来ていない時刻だ。
南雲が「電源のリーケージでデジタルゴミが入ったんじゃないか」と言うが、明らかに誰かが意図的に刻んだ長さとリズムだった。
私は説明しようとして言葉を詰まらせた。引込線の最深部、古い車止めの先に“白い発光”が揺れている。見えるのは三角形の非常誘導灯。ところがこの区間には配線が残っていない。南雲が先に歩き、ライトを向けたその瞬間、光は赤に変わり「EXIT CLOSED」と英字で点滅した。
――赤い非常灯。地下鉄の扉を塞ぐ赤。二〇二一年一〇月三一日、京王線ジョーカー事件。男が車両に火を放ち、客が開かない窓に群がった映像で私は見た。
何もない空間に、あの車内アナウンスが重層的に響く。
「火災が発生しました。座席の下に身を伏せてください」
スピーカーなど無い。地下鉄通信の閉域線も切れている。なのにトンネルは満席の車両のように反響し、別の時代の別の惨事が重なり合う。
私はマイクもPCも捨て、南雲の腕を引いた。「地上へ戻ろう」。だが戻る方向から生暖かい空気が吹き付け、トンネルの闇の奥――進行不能だったはずの先端で、列車のモーター音が湧き上がってくる。アルミボディが拡声器のように金切り声を生む丸ノ内線特有のあの音色。
地図に無い引込線がいま走行可能になったとしか思えない。
「線路内立入は危険だから壁際に!」南雲が叫ぶ。しかし両側の壁は汗のように染み出した黒い水で光り、手を掛ければ剥がれそうだ。私は覚悟して“列車”を確認しようと正面を向いた。
見えたのは車両ではなかった。トンネル形状と同じ円筒の点光源が幾重にも連なり、車両の長さと速度を模してこちらに突進してくる“残像”だ。光は痙攣するシャッターのように明滅し、その刹那を重ね合わせると、異なる事件現場の車内がフレームごとに浮かび替わる。サリンで泡を吹く乗客。焼け爛れた京王線の座席。墜落したジャンボ機の暗い機内。
南雲が持っていた信号灯が弾かれ、レンズが砕けた。彼は膝を突き、乾いた声で「逃げられない」と呟いた。私は咄嗟にポケットの通話機能付きレコーダを投げつけた。それはまるで受け止められるように光の束へ吸い込まれ、中で赤い点滅を繰り返している。
次の瞬間、轟音が喉を突き抜け、私は意識を飛ばした。
* * * * *
目を開けると、地上の保安装置室だった。南雲が肩を揺さぶっており、壁の時計は“00:23”を指している。――あのノイズに埋め込まれていた時刻だ。レコーダは私の胸ポケットに戻っており、データフォルダに新しいファイルがあった。
再生ボタンを押すと、先ほど耳にした惨事の音声が走馬灯のようにつながり、最後に女の息継ぎが入った。
「つぎは……おまえの……駅……」
波形の最後尾に緯度経度らしき数字があった。スマホで地図に入力すると、丸ノ内線・新中野駅のホーム中央、私が毎朝通勤に使う場所だった。時刻の欄には「06:43」。私がいつも乗る始発の到着時刻。
南雲が「地下で何を録った?」と訊く。私は答えず、レコーダのメモリカードを折った。だが液晶には消したはずのファイル名が残っている。
〈MARUNOUCHI_NEXT_KANDA〉
カードを抜いても、電池を外しても表示は変わらない。
――列車事故や地下テロを外から眺めてきた私たちの記録メディアは、やがて“次の現場”の予告装置に変わるのだろうか。
あなたが明朝、地下鉄のホームに立つなら、耳を澄ませてほしい。到着アナウンスのスピーカーが、たとえ一瞬でも3.4kHzの金属音に歪んだら、それは誰かが過去に残した悲鳴と同期した証だ。
そのときは電車に乗らず、階段を引き返してほしい。
終電が通らない線路には、終わらない惨事だけが走っている。
(了)
――物語に引用した実在の出来事――
・1995年3月20日 地下鉄サリン事件(13名死亡)
・1985年8月12日 日本航空123便墜落事故(520名死亡)
・2021年10月31日 京王線車内放火・刺傷事件(重軽傷18名)