夏の雹の神隠し
高校二年の僕が両親と共に山形県の祖父母の家に帰省したのは、極端に暑い8月の中旬だった。田舎の空気は都会とは違い、澄んでいて懐かしい匂いがした。祖父母の家は山間の小さな集落にあり、周囲を田畑と森に囲まれていた。
「健太、久しぶりだな。すっかり大きくなったな」
祖父は相変わらず太い声で僕を迎えてくれた。祖母は台所から手を振り、既に昼食の準備に追われていた。
「明日は山神様の夏祭りだよ。久しぶりに参加しなさい」と祖母が言った。
山神様の祭りは僕が小さい頃によく連れて行かれた地元の行事で、山の恵みに感謝し、秋の収穫を祈願するものだった。最近は過疎化が進み、規模が小さくなっていると聞いていた。
「ところで」と祖父が急に真面目な顔になり、「あの事件のことは聞いているか?」
「事件?」
「先月の末、隣村の中学生が行方不明になったんだ。まだ見つかっていない」
僕の背筋が寒くなった。祖父の表情は暗く、祖母も黙り込んでいた。
「どこで?」
「ここから3キロほど離れた三ツ石山の中腹だ。きのこ採りに入って、そのまま…」
祖母が急に話を遮った。「そんな話、今日はやめましょう。健太が来たお祝いなんだから」
その夜、僕は古い縁側に座り、満天の星空を見ていた。都会では見られない星の数に圧倒されていると、祖父が横に座った。
「実はな、健太」祖父は声を潜めた。「あの行方不明の少年の話には続きがある」
僕は身を乗り出した。
「山神様が怒っているという噂なんだ」
「山神様?」
「ああ。三ツ石山は昔から山神様が住むと言われている。山に入る時には必ず挨拶をし、お供え物をしないといけないんだ。だが最近は、そういった習わしを知らない若い者が増えた」
祖父は遠くを見つめ、続けた。「行方不明になった少年は、山に入る前に山神様に挨拶もせず、禁忌とされる場所に足を踏み入れたという」
「禁忌の場所?」
「三ツ石山の中腹には、三つの大きな石が円を描くように配置されている場所がある。そこは山神様の座だと言われていて、不用意に近づくと神隠しに遭うと昔から言われてきた」
僕は息を呑んだ。小さい頃、祖父母の家に来るたびに聞かされていた山の言い伝えが、突然現実味を帯びて迫ってきた。
「明日の祭りは、山神様の怒りを鎮めるために、特に盛大に行われるんだ」祖父は低い声で付け加えた。
翌日の朝、集落全体が祭りの準備で活気づいていた。神社の境内では、神主が厳かに祝詞を上げ、村人たちは五穀豊穢と行方不明の少年の無事を祈った。
僕は祭りを手伝った後、少し離れた場所で休んでいた。その時、急に空が暗くなり始めた。遠くで雷が鳴り、風が強くなってきた。
「変な天気だな」と思っていると、祖父が急いで僕のところに来た。
「健太、早く家に戻るぞ!」
「え?でも祭りは?」
「天気が急変した。山神様の祟りかもしれん」
まだ笑っている余裕があった僕だったが、その時、信じられないものが空から降ってきた。
ゴルフボール大の雹だった。
「急いで!」祖父は僕の手を引いた。
雹は激しさを増し、祭りの屋台や飾りつけを打ち壊し始めた。人々は悲鳴を上げながら逃げ惑った。僕と祖父は何とか家に辿り着いたが、窓ガラスが割れる音と共に、雹が家の中まで吹き込んできた。
「こんな雹、見たことがない…」祖母は震える声で言った。
その夜、雹は止んだが、村は壊滅的な被害を受けた。屋根が壊れた家も多く、農作物はほぼ全滅だった。
「これは天罰だ」村の長老が言っているのを僕は耳にした。「山神様の怒りを鎮められなかった」
翌日、信じられないニュースが村に届いた。あの激しい雹の中、三ツ石山の中腹で行方不明だった少年が見つかったのだ。意識はあったが、記憶を失っていた。少年が言うには、雹が降り始めた時、彼は突然自分が山の中にいることに気づいたという。
「まるで目が覚めたようだった」と少年は語ったそうだ。「一ヶ月どこにいたのか、何をしていたのか、まったく覚えていない」
少年の発見は村人に希望を与えたが、同時に恐れも生んだ。山神様は少年を返してくれたが、その代わりに村に罰を与えたのか?
僕は祖父に尋ねた。「本当に山神様の仕業なのか?」
祖父は長い間黙っていたが、最後にこう言った。「健太、自然には我々の理解を超えた力がある。山は恵みをもたらすと同時に、畏怖の対象でもある。古来より山の神は、時に優しく、時に厳しく人間に接してきた。今回の出来事も、山神様からの警告なのかもしれん」
その夜、僕は不思議な夢を見た。三つの大きな石の間に立ち、目の前には長い白髪と緑の衣をまとった老人が座っていた。老人は僕を見て、何も言わなかったが、その目には深い悲しみと警告が込められているように感じた。
「山を敬え」という声が風のように僕の耳に届いた。
目が覚めると、僕は冷や汗で体が濡れていた。窓の外では、明け方の静かな雨が降っていた。
帰京する日、祖父は僕に小さな木彫りの人形を渡した。
「山の神のお守りだ。東京に帰っても、自然を敬う心を忘れるな」
あれから十年が経った。今では環境問題に取り組むNPOで働いている僕だが、あの夏の出来事は鮮明に記憶に残っている。
時折、特に激しい雹が降る日には、あの山神様の警告を思い出す。自然を軽んじる人間への、静かで強い警告を。
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2018年7月、山形県の山間部で観測史上最大級の雹が降り、甚大な被害をもたらした。農作物は壊滅的な打撃を受け、家屋の屋根や窓ガラスも多数破損した。
同じ月、その地域で行方不明になっていた中学生が、雹が降った翌日に発見されるという不可解な事件が起きた。少年は約3週間の記憶を失っており、どこでどうしていたのかを説明できなかった。地元の古老たちは「山の神の仕業」と囁いたという。
現在も山形県の一部地域では、山に入る前に「山の神様」への挨拶と小さな供え物を欠かさない風習が残っている。特に三つの石が並ぶ場所は「神の座」として崇められ、不用意に近づかないよう言い伝えられている。
気象学者たちは極端な気象条件による突発的な雹だと説明するが、地元の人々は今でも「自然への不敬が招いた天罰」と信じている。