裏山の神籬
蝉の声が耳をつんざく八月の午後、俺は田舎の祖母の家に到着した。都会の喧騒から離れ、夏休みの一週間を過ごすためだ。
「晋平、久しぶり。すっかり大きくなったねぇ」
祖母は玄関先で俺を出迎えた。最後に会ったのは中学入学前だから、もう四年も経っている。
「おばあちゃん、元気そうだね」
祖母の家は山間の小さな集落にあった。家の裏手には鬱蒼とした森が広がり、その奥には古い神社があるという。
その日の夕食後、縁側で涼んでいると、祖母が話し始めた。
「晋平、あんたはこの辺りの言い伝え、知らないよね」
「言い伝え?」
「ああ、この裏山の神様のことよ」
祖母によれば、この山には古くから神様が住んでいるという。その神様は集落の守り神でもあるが、怒らせると祟りをなすとも言われていた。
「昔からね、裏山に入るときには必ず『お邪魔します』と声をかけなさいと言われてきたんだよ。それと、日が沈みかけてからは絶対に入っちゃいけない」
「なんで?」
「日没から夜明けまでは神様の時間だからさ。人間が入ると、道に迷わされるんだよ」
祖母は続けた。「それと、山の真ん中にある『神籬』には絶対に触れちゃいけない」
「神籬?」
「ひもろぎ、って読むんだよ。神様が宿る場所さ。大きな岩に注連縄が張られてるんだ」
なんだか胡散臭い話だなと思いながらも、祖母の真剣な表情に、少し背筋が寒くなった。
翌日、俺は早朝から裏山を散策することにした。朝なら大丈夫だろう。入口で「お邪魔します」と声をかけ、山道を登り始めた。
山は予想以上に静かだった。蝉の声さえ遠くに聞こえる。木々の間から射す朝日が、黄金色の光の筋を作り出していた。
一時間ほど歩いたところで、小さな祠を見つけた。赤い鳥居の奥に、苔むした石の祠。周囲には古びた石仏が並んでいる。
「これが神社かな」
だが祖母の話によれば、神社はもっと奥にあるはずだ。好奇心に駆られ、さらに奥へと進んだ。
木々が途切れ、小さな空き地に出た時、俺は息を呑んだ。
そこには巨大な一枚岩があり、風化した赤い注連縄が張り巡らされていた。岩の表面には、判読できない古い文字が刻まれている。
「これが神籬か...」
思わず近づき、手を伸ばした時だった。
「触れるな」
低い声が背後から聞こえた。振り返ると、そこには老人が立っていた。山伏のような黒い装束を身にまとい、手には錫杖を持っている。
「すみません、ただ見ていただけで...」
「見るだけなら構わんが、触れてはならん。この石は神様の依り代だ」
老人は俺に近づき、「お前、この山の決まりを知らんのか」と尋ねた。
「祖母から少し聞きました」
「ならば、ここはもう引き返せ。日が高くなる前に」
老人の眼差しに威厳を感じ、素直に従うことにした。老人に案内され、山を下りながら、彼は昔話を語ってくれた。
「この山の神様は、豊作をもたらす恵みの神でもあるが、怒ると恐ろしい祟り神にもなる。昔、この神籬に触れた若者が行方不明になったことがあってな。三日後、彼は山の反対側で発見されたが、髪は真っ白になり、言葉を発することなく、三日後に亡くなった」
背筋が凍るような話だった。
「それは...いつの話ですか?」
「私が子どもの頃だから、七十年ほど前だな」
山を下りきった時、老人は「気をつけて帰れよ」と言い残し、森の中へと戻っていった。
その夜、祖母に老人のことを尋ねると、彼女は顔色を変えた。
「黒い装束の老人?この辺りにはそんな人はいないよ」
「でも、今日会ったんだ。山伏みたいな格好の...」
「まさか...」祖母は言葉を詰まらせた。「その人、顔はどんな感じだった?」
「厳しい顔つきの老人で、目が...そうだ、片目が少し白く濁ってた」
祖母は立ち上がり、仏壇から古い写真を取り出した。そこには黒い装束を着た老人が写っていた。確かに俺が今日会った人だ。
「これは私の父、つまりあんたの曾祖父さ。この村の神主だった人だよ。三十年前に亡くなってる」
血の気が引いた。今日会った老人は、死んでいるはずの曾祖父だったのか。
「でも、どうして...」
「あの山には不思議なことがたくさんあるんだよ。山の神様は時々、人の姿を借りて現れることがある。特にお盆の時期はね」
そういえば明日からお盆だ。
「神様があんたを守ってくれたんだろうね。神籬に触れると、本当に良くないことが起きるからね」
翌朝、俺は祖母と一緒に神社へお参りに行った。古い鳥居をくぐり、拝殿の前で二礼二拍手一礼。
「あの、神主さんはいないんですか?」と俺は祖母に尋ねた。
「この神社は無人だよ。月に一度、町から神主さんが来るだけさ」
お参りを終え、帰り道で祖母が言った。
「この神社には不思議な言い伝えがあるんだ。山の神様が人に姿を見せるのは、その人に何かを伝えたい時だけだって」
「じゃあ、俺に何か伝えたかったのかな」
「きっとそうだろうね」
その晩、俺は奇妙な夢を見た。
黒い装束の老人――曾祖父が俺に何かを差し出している。開いた掌の上には、小さな石があった。
「受け継ぐがよい」
目が覚めると、枕元に小さな石が置かれていた。夢で見たものと同じ形の石だ。
慌てて祖母に見せると、彼女は驚いた表情を浮かべた。
「これは...神籬の一部だ。どうやって...」
祖母によれば、この石には神様の力が宿っているという。そして曾祖父は生前、このような石を持っていたらしい。
「きっと山の神様が、あんたを選んだんだよ」
夏休みが終わり、都会に戻った俺は、その石を肌身離さず持ち歩くようになった。
不思議なことに、それからというもの、俺は自然の変化に敏感になっていった。雨が降る前には石が湿り気を帯び、何か良いことが起こる前には温かくなる。
一年後の夏、再び祖母の家を訪れた時、俺は山で再び老人――曾祖父に会った。
「よく戻ってきたな」
「はい、もっと山のことを知りたくて」
老人は微笑み、俺を深い森の中へと導いた。そこで俺は、この山に伝わる古い祭祀の方法を教わった。
それから毎年夏になると、俺は祖母の家を訪れ、山の神様に感謝を捧げるようになった。
大学生になった今でも続けている、この不思議な縁。時々友人に話すと、「オカルトだ」と笑われるが、俺にとっては紛れもない現実だ。
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実際に日本各地に残る「山の神信仰」がある。特に東北地方では、山の神は農耕の神として崇められる一方、祟り神としての側面も持つと考えられてきた。
国立民俗学博物館の記録によれば、1974年、岩手県の山間部で実際に起きた出来事として、山に入った若者が「山の神に導かれた」と証言するケースが報告されている。この若者は迷い込んだ山中で老人に出会い、安全に下山できたが、村人によればその特徴は50年前に亡くなった神主と一致していたという。
また、神籬は実際に神道において神の依り代とされる聖なる場所であり、多くは岩や樹木に注連縄を張ることで示される。こうした場所に不用意に立ち入ったり触れたりすることは、現在でも禁忌とされている地域が多い。
山形県の民俗調査では、山の神が人の姿を借りて現れるのは、その人物やその子孫に「何かを託す」場合が多いとされ、実際に神主家系の多くが「先祖からのお告げ」により神職についたという言い伝えが残っている。