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怖い話  作者: 健二
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夕闇の境目


私が高校二年の夏に体験したことは、今でも鮮明に記憶に残っている。あの日、私たちが目にしたものは、単なる迷信や作り話ではなかった。


田舎の祖母の家に夏休みを過ごしに行くのは毎年の恒例だった。山に囲まれた小さな集落は、都会の喧騒から離れた別世界のようだった。昔から「夕刻の境目」と呼ばれる時間帯には外出禁止という暗黙のルールがあったが、私たちはそれを単なる迷信だと笑い飛ばしていた。


「おばあちゃん、私たち散歩してくるね」


いとこの理沙と私は、夕方になってようやく涼しくなった空気を求めて外出した。時計は午後六時半を指していた。


「あんたら、七時前には必ず戻ってくるんだよ。夕闇の境目には外にいちゃいけないんだから」


祖母は真剣な表情で念を押した。「八坂神社の裏手には絶対に行っちゃいけないよ」


「はいはい」


軽く返事をして家を出た私たちは、集落を抜けて小さな丘へと続く小道を歩き始めた。


「この辺りの人って、未だに神隠しとか信じてるよね」理沙が笑った。


「でも、何か理由があるのかもしれないよ」


私は集落を見下ろす場所に立ち止まった。夕日が山の端に沈みかけ、辺りは薄紫色の靄がかかったように静まり返っていた。


「ねえ、八坂神社の裏手って何があるの?」


「さあ?見に行ってみる?」


好奇心に駆られた私たちは、山の中腹にある古い神社へと足を向けた。石段を上り、朱色の鳥居をくぐると、苔むした狛犬が無言で私たちを見つめていた。境内には誰もおらず、ただ風鈴の音だけが響いていた。


「裏手って、あっちかな?」


理沙が指さす方向には、細い獣道のような小道があった。赤い夕日が完全に沈み、辺りは急速に暗くなり始めていた。時計を見ると六時五十分。まだ大丈夫、そう思って私たちはその道を進んだ。


小道の先には、予想外の光景が広がっていた。切り立った崖の縁に、苔むした古い石祠が並んでいた。どれも小さく、長年の風雨で彫刻は摩耗していたが、かつては丁寧に祀られていたことがうかがえた。


「これ、何のお祠なんだろう」


近づいて見ると、一番大きな祠の前に石碑があった。「産女神うぶめがみ」と刻まれている。


「産女…子どもを産む女性の神様?」


その時だった。突然辺りが不自然な静けさに包まれた。鳥の声も、風の音も、すべてが消えたかのようだった。空気が重く、粘り気を帯びたように感じる。そして、私たちの背後から微かな泣き声が聞こえてきた。


振り返ると、そこには白い着物を着た女性が立っていた。薄暗い中でもはっきりと見えたのは、彼女の腕に抱かれた赤ん坊だった。しかし、よく見ると女性の顔はなく、ただ暗い影だけがあった。


「理沙…」震える声で友人の名を呼んだが、返事はない。隣を見ると、理沙の姿はなかった。


恐怖で足がすくみ、動けなくなった私の耳に、女性の囁きが届いた。


「我が子を…返して…」


その声は風のように薄く、それでいて心の奥底まで響き渡った。女性は一歩、また一歩と私に近づいてきた。


「違います…私は…」


言葉にならない恐怖で、ただ後ずさりするしかなかった。すると足元の石が崩れ、私は崖の縁でバランスを崩した。落ちる——その瞬間、誰かが私の手を掴んだ。


「早く!こっちよ!」


理沙だった。彼女は私の手を引いて、小道を走り出した。


「どこに行ってたの!?」


「え?私ずっとあなたの隣にいたわよ!突然走り出すから驚いたわ」


混乱する私たちは神社の境内まで必死に走った。振り返ると、白い影は見えなかったが、どこか後ろから見られているような感覚が残っていた。


祖母の家に戻ると、時計は七時十分を指していた。祖母は青ざめた顔で玄関に立っていた。


「どこに行ってたの!心配したんだから!」


祖母は泣きそうな顔で私たちを抱きしめた。


「おばあちゃん、八坂神社の裏手にある祠って何?」


その質問に祖母の表情が凍りついた。


「あんたら、行ったの?産女神の祠に?」


祖母は震える手でお茶を入れながら話し始めた。


「昔、この村では難産で亡くなった女性や、生まれてすぐに死んでしまった赤ん坊の魂を鎮めるために、あの祠を建てたんだよ。特に、夏の夕闇の時間帯は、あの世とこの世の境目が薄くなるって言われてる。その時間に祠に近づくと、子を失った母親の魂に取り憑かれることがあるんだ」


「取り憑かれる?」


「ええ。特に若い女性は危険だと言われてる。産女の魂は自分の子供を探していて、若い命を奪おうとするんだ。昔、ちょうど今の時期に、村の女の子が夕方に神社の裏に行って、そのまま行方不明になったことがあってね」


「それで、どうなったの?」恐る恐る尋ねる私に、祖母は重い口調で答えた。


「一週間後、崖の下で見つかった。でも、その子は…なんていうか、別人のようになっていたんだよ。誰とも話さなくなって、ただずっと子守唄を歌っていた。そして次の夏、その子も難産で亡くなった」


その夜、私は理沙と同じ部屋で眠ることにした。恐怖で眠れなかったが、真夜中過ぎ、ようやく疲れて眠りに落ちた。


そして夢を見た。白い着物の女性が私に赤ん坊を差し出している夢だった。彼女の顔はなく、ただかすかな声で「お願い…守って…」と言っていた。


翌朝、目を覚ますと理沙はすでに起きていて、縁側で何かを抱えていた。近づくと、それは古いぬいぐるみだった。


「これ、祠の近くに落ちてたの。かわいそうだから持って帰ってきたの」


私は息を呑んだ。昨夜の夢に出てきた赤ん坊の姿と、そのぬいぐるみはどこか似ていた。そして理沙の目には、見知らぬ光が宿っていた。


それから数日後、私たちは都会に戻った。理沙は次第に元気を取り戻したように見えたが、時折遠くを見つめては子守唄を口ずさむようになった。


その年の冬、理沙は高熱を出して入院した。医師は原因不明の高熱と診断したが、薬も効かず、彼女は次第に衰弱していった。そして意識が朦朧とする中、彼女はずっとあのぬいぐるみを抱きしめていた。


危機を脱した後、理沙は私にこう打ち明けた。「あの日から、夢に白い着物の女性が出てくるの。彼女は私に子供を託したいって言うの。最初は怖かったけど、今はその子を守りたいって思うようになったの」


理沙はその後も時々体調を崩したが、不思議なことに翌年の夏、再び祖母の家を訪れると、理沙の体調は急速に回復した。私たちは再び八坂神社を訪れ、今度は正式に産女神に参拝した。祖母に教わった通り、お供え物をして「お子様はきちんと守られています」と伝えた。


あれから数年経った今でも、私たちは毎年夏になると祖母の家を訪れ、産女神に参拝する。理沙は看護師になり、特に新生児科で働くことを選んだ。彼女は「使命を感じるの」と言う。


---


今でも日本の山間部には、夕闇の境目に現れる存在があると言われている。2015年、国立民俗学研究所の調査によれば、全国で年間15件ほど、夕方の神社付近での不可思議な体験が報告されているという。特に夏至から盂蘭盆会までの期間は、あの世とこの世の境界が薄くなると信じられており、神隠しの話が多く報告されている。


また、産女神を祀った祠は実際に各地に存在し、子どもの健やかな成長や安産を祈願する場所として今も大切にされている。しかし、参拝にも適切な時間と作法があるとされ、特に夕暮れ時の訪問は避けるべきだと地元の人々は言う。


もし夏の夕暮れ時、神社の裏手で白い着物の女性を見かけたら、決して近づかないこと。そして、もし「我が子を返して」という声が聞こえたら、「あなたのお子様は安らかに眠っています」と答えるべきだという。


なぜなら、彼女たちが求めているのは、ただ自分の子どもが無事であることを知りたいという、母親としての永遠の願いなのだから。

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