夏至の神隠し
金色の夕日が山の稜線に沈もうとしていた。田んぼからは蛙の合唱が始まり、遠くの山道を下校する子供たちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。静岡県の小さな山間の集落、鹿見地区の初夏の風景だ。
「茜、もう帰るよ!」
十六歳の水谷美月は、山の斜面に広がる茶畑の端から声を張り上げた。幼なじみの島田茜は、刈り取られた茶葉の香りに包まれながら、ひとりで何かを見つめていた。
「ねぇ、見て見て、あれ」
茜は山の中腹を指さした。そこには古びた鳥居が一基、木々の間からわずかに顔を覗かせている。
「あんなところに鳥居があるなんて知らなかった」と美月。
「多分、廃れた神社じゃない?探検しに行こうよ」
「もう暗くなるよ。明日にしよう」
茜は口を尖らせたが、すぐに明るい表情に戻った。「約束だよ。明日の夕方、あの鳥居の前で待ち合わせね」
その約束が、すべての始まりだった。
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翌日は夏至。一年で最も昼が長い日だ。夕方、約束の時間になっても茜は現れなかった。美月は彼女の家に電話をかけた。
「あら、美月ちゃん。茜なら朝からあなたと出かけていると思っていたわ」
美月の背筋に冷たいものが走った。茜は朝から行方不明だった。
警察に通報され、村中の人が茜を探し始めた。美月は昨日見た鳥居のことを思い出し、ひとりで山へ向かった。
夕暮れ時、木々の間から覗く鳥居に辿り着いた美月は、その奥に続く苔むした石段を上がっていった。古い社が見えてくる。朽ちかけた賽銭箱の前に何かが落ちていた。
茜のヘアピン。
「茜!」
社の奥から、かすかに声が返ってきたような気がした。美月は不安を抱えながらも、社の裏手へと回り込んだ。そこには小さな祠があり、その前に石の祭壇が設えられていた。
祭壇の上には新鮮な花と、まだ温かい茶菓子が供えられている。誰かが最近ここを訪れたのは間違いなかった。
「茜、どこにいるの?」
美月の問いかけに、風がざわめいた。突然、祠の奥から微かな光が漏れ出した。覗き込むと、そこには小さな空間が広がっており、人ひとりが通れそうな隙間があった。
一瞬の躊躇いの後、美月は身を屈めてその隙間に入り込んだ。
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目が慣れてくると、そこは自然の洞窟のようだった。内部はさらに奥へと続いている。美月は携帯のライトを頼りに前進した。洞窟の壁には古い時代の絵が描かれていた。山の神を祀る儀式の様子や、人々が山の神に捧げ物をする姿が描かれている。
不気味なのは、その捧げ物の中に、若い女性の姿があることだった。
「美月、来たの?」
突然、前方から茜の声が聞こえた。美月は駆け出した。
「茜!どこにいるの?」
「ここだよ。もっと奥」
声に導かれて進んでいくと、洞窟は次第に広くなり、最後は円形の空間に出た。中央には大きな石があり、その上に茜が横たわっていた。
「茜!大丈夫?みんな心配してるよ!」
美月が近づくと、茜はゆっくりと上体を起こした。彼女の目は虚ろで、まるで美月を見ていないようだった。
「山の神様が私を選んでくれたの」茜の声は不思議と落ち着いていた。「夏至の日に選ばれた娘は、この山の守り人になれるんだって」
「何言ってるの?早く帰ろう」
美月が茜の手を取ろうとした瞬間、洞窟全体が震動した。地震ではない。何かが動いている音だった。
「もう遅いよ」茜が言った。「あなたも選ばれたんだから」
美月が振り返ると、洞窟の入り口が岩で塞がれていた。逃げ場はない。
「この儀式は江戸時代から続いているの」茜が静かに語り始めた。「夏至の日に若い娘を山の神に捧げる。そうすれば村は豊作に恵まれ、災いから守られる」
「そんな…」
「でも本当は娘は死なないの」茜の表情が柔らかくなった。「私たちは山の神の花嫁として、違う世界で生きていくの。それが神隠しの真実」
その時、空間の奥から何かが近づいてきた。人の形をしているが、顔はなく、全身が木の根や葉で覆われている。山の神だった。
美月は恐怖で声も出なかった。神は両手を広げ、二人の少女に近づいてきた。
「さあ、行きましょう」茜は美月の手を取った。「私たちの新しい世界へ」
美月の意識が遠のいていく。最後に見たのは、茜の微笑む顔と、彼女の瞳に映る山の神の姿だった。
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三日後、捜索隊は山中で美月と茜の靴を発見した。しかし、二人の姿は見つからなかった。不思議なことに、靴の周りには様々な花が咲き誇っていた。季節外れの、山にはない花々が。
その年、鹿見地区は記録的な豊作に恵まれた。村人たちは口には出さないが、皆知っていた。山の神に選ばれた娘たちのおかげだと。
今でも夏至の日が近づくと、山からは少女たちの笑い声が聞こえてくると言われている。地元の人々は、その日だけは山に入らない。神に選ばれる者が出るからだ。
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静岡県の山間部には、「神隠し山」と呼ばれる場所が実在する。1970年代、夏至の日に高校生の姉妹が山に入ったまま行方不明になった事件が起きた。捜索は一週間続いたが、発見されたのは二人の靴と制服の一部のみ。
奇妙なことに、二人が最後に目撃された場所には、それまでなかった小さな祠が建っていたという。地元の古老によれば、その山には「娘を花嫁として迎える山の神」の伝説があり、江戸時代から夏至の日には若い娘が姿を消す事件が何度も起きていたとのこと。
現在でもその山では、夏至の前後に不可解な失踪事件が時折発生しており、地元では「山の神の花嫁選び」と恐れられている。2005年には失踪した女子高生の持ち物だけが、花で囲まれた状態で発見された。
警察の公式記録では「遭難」となっているが、地元住民は口を閉ざし、夏至の日には決して山に近づかないという。