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怖い話  作者: 健二
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夏越しの忌み


空気が張り詰めていた。七月の蒸し暑さは例年以上で、額から流れる汗が首筋を伝う。夕暮れの神社境内に立つ私の目の前には、大きな茅の輪が設置されていた。


「大祓、行くよ」


隣で肩を叩いたのは幼馴染の直樹だ。今年で高校二年生になった私たちは、毎年恒例の夏越の大祓に参加するため、氏神様である諏訪神社に来ていた。


「あぁ」


私は生返事をしながら、何となく居心地の悪さを覚えていた。夏越の大祓は、半年間の穢れを落とし、無病息災を願う神事だ。茅の輪をくぐることで、残り半年の災厄を避けられるという。


「なんか今年は人少ないね」と直樹。


確かに例年なら地元の人々で賑わうはずの境内は、閑散としていた。数えるほどの参拝客と神職の方々だけだ。


「コロナ以降、こういう行事自体が縮小してるからじゃない?」


「いや、それだけじゃないと思うよ」


直樹は真剣な顔で言った。


「聞いた?先月から町内で原因不明の熱病が流行ってるって。症状は高熱と全身の発疹。医者も原因が分からないらしい」


「ヘェ…」


「しかも、発症した人は皆、『夢で見た』って言うんだ。誰かに憑かれる夢を」


突然、背筋に冷たいものが走った。私は先週から同じような夢を見ていた。赤い着物を着た見知らぬ女性が私の胸に手を置き、何かを囁く夢だ。


茅の輪の前で、神職の方々が祝詞を上げ始めた。


「さあ、始まるよ」


私たちは並んで茅の輪に向かった。茅の輪は直径約2メートルほどの円形で、緑の茅が香ばしい匂いを漂わせている。


大祓の作法に従い、左回りに茅の輪をくぐり、「水無月の夏越の祓する人は、千年の命のぶというなり」と唱えながら、再び右回りでくぐり抜ける。


私が茅の輪に近づいた瞬間だった。


「来ないで」


はっきりと聞こえた女性の声に、私は足を止めた。


「どうしたの?」振り返る直樹。


「今、誰か…」


私の言葉を遮るように、神職の一人が私たちに近づいてきた。


「若い方が来てくれて嬉しいですね」


その神職は七十歳ほどの老人で、穏やかな笑顔を浮かべていた。


「はい…毎年来ています」


「そうですか。今年は特に大切な年ですからね」


神職の言葉に、私は首を傾げた。


「特に大切、ですか?」


「ええ。六十六年に一度の『疫神送り』の年なのです」


神職は説明を続けた。


「この地域には古くから、六十六年周期で疫病をもたらす『赤い女』の言い伝えがあります。赤い着物を着た女性の姿をした疫神が、夢に現れて熱病を広めるというものです」


私の体が強張った。赤い着物の女性―私の見ていた夢と一致する。


「その疫神は、人々の穢れに引き寄せられるといわれています。だからこそ、大祓で穢れを落とすことが重要なのです」


神職は茅の輪を指さした。


「さあ、くぐりなさい。疫神の力から身を守るために」


私は恐る恐る茅の輪に近づいた。しかし、一歩踏み出した瞬間、激しい眩暈に襲われた。


目の前が真っ赤に染まり、耳元で囁く声が聞こえる。


「くぐらないで。私を裏切らないで」


意識が遠のく中、私は地面に倒れ込んだ。


***


目を覚ますと、私は神社の社務所に寝かされていた。


「気がついたか」


心配そうな顔で直樹が覗き込んでいる。


「何が…」


「急に倒れたんだよ。顔は真っ赤で、熱もあった」


横から老神職が茶を持ってきてくれた。


「やはり、疫神に見初められたようですね」


「見初められた?」


「疫神は自分の宿主を選びます。六十六年前も同じでした。若い男性が夢を見始め、大祓の日に倒れた。そして町に疫病が広がった」


神職は深刻な表情で続けた。


「疫神は本来、人々の穢れを祓うための存在です。しかし、長年人々に忘れられ、恨みを持つようになった。だから今は穢れを祓うのではなく、穢れをもたらすのです」


「じゃあ、僕はどうすれば…」


「もう一度、茅の輪をくぐらなければなりません。しかも今夜、七夕の夜に」


神職は窓の外を指した。日は既に沈み、夜空には星が瞬き始めていた。


「七夕の夜に、天の川が最も明るく輝く時、疫神の力は弱まります。その時に茅の輪をくぐれば、あなたから疫神を祓うことができるでしょう」


私は震える足で立ち上がった。もう一度、あの声を聞くと思うと恐ろしかったが、このままでは町中に病が広がるかもしれない。


「分かりました。やります」


境内に戻ると、茅の輪の周りには、先ほどより多くの松明が灯されていた。夜空を見上げると、天の川がかすかに見える。


「さあ、始めましょう」


神職たちが再び祝詞を上げ始めた。私は震える足で茅の輪に近づいた。


「裏切らないで」


また、あの声が聞こえる。


「あなたを選んだのよ。私の宿主に」


声は私の頭の中で反響した。同時に、激しい痛みが体を襲う。まるで全身が燃えるような感覚だ。


「く、くぐるぞ…!」


私は茅の輪に足を踏み入れた。すると、目の前に赤い着物の女性が立ちはだかった。顔は白く、目は血のように赤い。


「戻りなさい」女性は言った。「あなたの体を借りれば、私は再び人々に畏れられる。忘れられた神に戻れるのよ」


「違う…」私は震える声で言った。「あなたは人々を守るための神だったはず。病をもたらすためじゃない」


女性の表情が一瞬揺らいだ。


「私は…忘れられた…」


「でも今、ここにいる人たちはあなたを覚えている。だから、本来の役目を思い出して」


私は一歩前に踏み出した。女性は苦しそうな表情をしている。


「茅の輪をくぐれば、私は消える…」


「消えない。あなたは本来の姿に戻るだけだ」


そう言って、私は茅の輪の中心に向かって歩き続けた。女性の姿が徐々に透明になっていく。


「分かったわ…」


女性の声が遠くなる。


「私の本当の役目を果たします。あなたの中の穢れを祓い、町の疫病を取り除きます」


私が茅の輪を完全にくぐり抜けた瞬間、女性の姿は赤い光となって夜空へと昇っていった。その光は天の川に溶け込み、一瞬、空全体が赤く染まったように見えた。


体の熱が引いていくのを感じた。同時に、心が洗われるような清々しさに包まれる。


「終わったぞ…」


直樹が駆け寄ってきた。


「大丈夫か?何かすごい光が見えたけど」


「うん…なんとか」


老神職が微笑みながら近づいてきた。


「見事でした。疫神は本来の姿に戻りました。これで町の疫病も収まるでしょう」


その言葉通り、翌日から町内の原因不明の熱病は急速に収束していった。患者たちは「赤い光に包まれる夢を見た」と口を揃えた。


あれから一年が経った。今年も夏越の大祓の季節がやってきた。


私は直樹と共に、再び諏訪神社を訪れた。今年は例年通り、多くの地元の人々で賑わっていた。


茅の輪の前に立った時、一瞬だけ、赤い着物の女性の姿が見えた気がした。しかし今度は恐ろしい姿ではなく、優しく微笑む姿だった。


「ありがとう」


風のような囁きが聞こえた気がした。


---


これは決して単なる伝承ではない。


2018年、F県I市の諏訪神社では、夏越の大祓の際に一人の高校生が突然倒れるという出来事があった。その直後、市内で原因不明の発熱と発疹を伴う疾患が報告されたが、数日で不思議と収束したという。


地元の古文書には、66年周期で「赤い疫病」が流行するという記録が残されており、実際に1952年、1886年にも同様の出来事があったことが確認されている。


さらに興味深いことに、この神社には「赤繪宮」と呼ばれる小さな祠があり、かつては疫病退散の神として信仰されていたが、近年はその存在すら忘れられていた。しかし、2018年の出来事以降、この祠は修復され、再び地元の人々の信仰を集めているという。


神社の老神職は「自然と人間の関係が希薄になった現代だからこそ、こうした神々の存在を思い出す必要がある」と語っている。私たちが忘れても、神々は決して私たちを忘れない。そして時に、厳しい形でその存在を思い出させるのかもしれない。

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