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怖い話  作者: 健二
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八月の渡し


夏の終わりが近づくある日、高校二年の僕は祖父の家がある山間の村を訪れていた。東京から遠く離れたこの村は、十年前に祖父母と過ごした夏休み以来だった。祖母は五年前に他界し、一人暮らしの祖父を心配した母の勧めで、夏休みの一週間を過ごすことになったのだ。


「駅まで迎えに来たぞ、航」


懐かしい顔で現れた祖父は、昔より少し小さくなったように見えた。古びた軽トラックに乗り込み、山道を走り抜けると、記憶の中の村が姿を現した。小川が流れ、田んぼが広がる静かな集落。


祖父の家に着くと、夕食の準備をしながら祖父が言った。


「明日は八月十六日だな。川渡りの日だ」


「川渡り?」


「そうだ。この村の古い行事でな、お盆が終わる日に行われる。村人たちが夜中に川を渡って、あの世に帰れなかった魂を送る儀式だ」


なんだか物騒な話だと思ったが、僕は地方の風習に興味があった。


「見に行ってもいい?」


「見物はダメだ」祖父の表情が一瞬厳しくなった。「村人以外は参加も見物も許されんのだ。村の決まりだ」


その晩、僕は蚊帳の中で、祖父の話を思い出していた。窓の外から聞こえる虫の声と、遠くで流れる川のせせらぎ。そんな中、ふと誰かの話し声が聞こえた。


外を覗くと、月明かりの下、古めかしい着物を着た少女が家の前に立っていた。年は僕と同じくらい。


「誰?」と声をかけると、少女はびっくりしたように振り返った。


「あ、ごめんなさい。迷惑でしたか?」透き通るような声だった。「私、明日の川渡りの練習をしてたの」


「川渡り?僕も興味あるんだ。でも、村人以外は見ちゃいけないんだよね」


少女は微笑んだ。「秘密にしてくれるなら、見せてあげる」


好奇心に負けた僕は、翌日の夜、少女との約束通り、家を抜け出した。祖父はすでに深い眠りについていた。


「こっち」


村はずれで待っていた少女が、僕を小道へと導いた。月明かりだけを頼りに、僕たちは小川の上流へと向かった。やがて視界が開け、古い木造の橋が姿を現した。


「古渡橋だ」少女が言った。「昔、この橋で事故があって、多くの人が亡くなったの。だから、彼らの魂を送るために、川渡りの儀式が始まったんだ」


橋の近くには、白い布で覆われた小さな祠があった。そこには「水神様」と書かれていた。


「もうすぐ始まるよ」


少女の言葉通り、遠くから松明の明かりが見えてきた。村人たちが列をなして、祠の前にやってきた。彼らは白装束に身を包み、手には提灯を持っていた。


「隠れて」少女が囁き、僕たちは近くの茂みに身を潜めた。


村人たちは祠の前で祈りを捧げた後、橋ではなく川に入り始めた。夏とはいえ、山の水は冷たいはずだ。しかし、誰一人震えることなく、黙々と川を渡っていく。


提灯の光が川面に映り、幻想的な光景が広がった。村人たちの唱える経文のような言葉が、夜の闇に響く。


「あれは何?」


川の中央で、村人たちの周りに青白い光が漂い始めた。人の形をしたそれらは、村人たちに導かれるように対岸へと移動していく。


「帰れなかった魂」少女は静かに答えた。「今夜、あの世への道を示してもらえるの」


震える思いで見ていると、突然、一つの青い光が僕の方へ向かってきた。恐怖で動けなくなった僕の前に、それは立ち止まった。ぼんやりとした輪郭の中に、老人の顔が浮かび上がる。


「航…お前か」


声にならない声が、僕の頭の中に響いた。


「誰…?」


「わからんか。わしだよ、お前の曾祖父だ」


十年前に亡くなった曾祖父。幼い頃の記憶の中にある、優しい笑顔の老人。


「なぜここに…」


「毎年この日に、あの世に戻れなかった者たちが集まるんだ。お前のような若い血を引く者が見えるとはな…」


青い光は揺らめき、消えかけていた。


「待って!」


「時間がない。航、祖父に伝えてくれ。井戸の底に、約束のものがあると」


光は対岸へと流れていき、やがて見えなくなった。


儀式が終わり、村人たちが去った後、僕と少女は橋のたもとに残った。


「あの…あなたも村の人?」震える声で尋ねた。


少女は微笑んだ。「私はこの橋で亡くなった一人。毎年この日だけ、戻ってこられるの」


恐怖で足がすくんだ。少女の足元を見ると、地面に接していなかった。そして、彼女の着物のすそから水が滴り落ちていた。


「怖がらないで」彼女の声は優しかった。「あなたは特別な人。死者の声が聞こえる人は稀なの。だから案内したかった」


「私は…」


「もう行かなきゃ。夜が明ける前に、あの世に戻らないと」


彼女は川の方へと歩き出した。振り返り、最後に言った。「来年も会えるといいな」


翌朝、祖父に昨夜のことを話すと、祖父は驚いた表情を見せた。


「航、お前は古渡橋へ行ったのか?危険なことをしたな」


しかし、曾祖父からのメッセージを伝えると、祖父の表情が変わった。


「井戸の底に…約束のもの?」


祖父は急いで庭の古い井戸へと向かった。井戸は使われなくなって久しく、蓋がされていた。祖父はそれを開け、中を覗き込んだ。


「はしごを持ってくるんだ」


僕は言われた通りにした。祖父は年齢を感じさせない身のこなしで井戸に降り、しばらくして小さな木箱を持って上がってきた。


箱の中には古い手紙と小さな布袋があった。祖父は手紙を読み、涙を流した。


「父さんは知っていたんだな…」


祖父の説明によれば、曾祖父は亡くなる前、大切な家宝を井戸に隠したという。それは代々伝わる水神様への奉納品で、儀式の際に使われるものだった。祖父の代で儀式への参加をやめたため、曾祖父はそれを隠したのだ。


「航、お前には霊感があるのかもしれん。古渡橋で見た少女は、六十年前の洪水で亡くなった村長の娘だ。彼女の写真がある」


祖父が見せてくれた古いアルバムには、確かに僕が会った少女と同じ顔の子が写っていた。


その夏の終わり、僕は祖父と共に川渡りの儀式に参加した。祖父が持っていた布袋の中身は、水神様への供物と、儀式の際に唱える古い経文が書かれた巻物だった。


川の中央で、再び青い光に包まれた時、少女の姿を見た。彼女は微笑み、手を振った。そして、他の魂たちと共に対岸へと消えていった。


---


実際に岐阜県の山間部に伝わる「水送り」と呼ばれる風習です。お盆の終わりに、先祖の霊を送るための儀式として、村人たちが川や池の水を汲んで送る行事が現在も続いています。


1954年8月、この地域で起きた集中豪雨による洪水で、古い木橋が崩壊し、多くの犠牲者が出たという記録があります。その中には村長の娘も含まれていました。


地元の古老の証言によれば、この事故以降、毎年8月16日の夜に川の近くで白い着物を着た少女の姿が目撃されるようになったといいます。また、霊感の強い若者が川渡りの儀式の際に、水の中に人影を見るという報告も複数残されています。


2007年には、ある家の古い井戸から江戸時代の水神祭祀に関する文書が発見され、地元の民俗学研究者によって研究が進められています。文書には、水神への奉納方法と、「川の向こう側」という異界との交信方法が記されていたといいます。

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