緑陰の囁き
真夏の太陽が照りつける中、私は転校初日の下校途中、迷子になっていた。スマホのバッテリーは切れ、周囲には見知った建物も人もいない。
「こんなところで熱中症になったら終わりだな…」
額の汗を拭いながら呟いた時、ふと涼しい風が頬を撫でた。視線を向けると、道路の向こう側に鬱蒼とした木立が見えた。鎮守の森だ。
森の入口には小さな鳥居と「八雲神社」と書かれた古びた石碑。その奥に広がる緑の濃さは、まるで別世界のように涼やかに見えた。
「少し休ませてもらおう」
鳥居をくぐった瞬間、不思議と周囲の音が遠のいた。蝉の声も、遠くの車の音も、全てが綿に包まれたようになる。代わりに聞こえてきたのは、微かな水の音と、木々の葉擦れの音。
参道を進むと、苔むした石段が現れた。その両脇には朽ちかけた石灯籠が並び、中には倒れたものもある。誰も手入れをしていないようだった。
「おかしいな…」
石段を上り詰めると、予想外の光景が広がっていた。社殿らしきものはなく、ただ広い空き地があるだけ。中央には御神木と思われる巨大な楠の木が立っていた。樹齢何百年という風格で、幹回りは数人で手を繋がないと囲めないほどだ。
その御神木の根元に、小さな祠があった。近づいてみると、中には鏡が祀られている。不思議に思って覗き込むと、自分の顔が映った。
「なんだ、ただの鏡か」
そう思った瞬間、鏡の中の自分が微笑んだ。
私は思わず後ずさった。鏡の中の自分は、確かに微笑んでいた。しかも、私が後退しているのに、鏡の中の姿は前に進んでくる。
恐怖で身体が硬直した。鏡の中の「私」は、今にも飛び出してきそうな勢いで近づいてきた。
「来ないで!」
叫んだ瞬間、突然背後から声がした。
「そこの子!何してるの?」
振り返ると、七十代くらいの老婆が立っていた。白い着物に袴という出で立ちで、神社の巫女か神主のような雰囲気だった。
「す、すみません。ちょっと休ませてもらおうと…」
老婆は厳しい表情で言った。「この場所は危険よ。特にこの鏡の祠は」
「危険、ですか?」
「そうよ。この鏡は『影取りの鏡』と言ってね、覗き込んだ者の魂を映し出すと言われているの。昔から、この鏡に映った自分の姿が動いたら、それはその人の死期が近いという言い伝えがあるんだよ」
冷や汗が背中を伝った。
「でも、心配しないでおくれ」老婆は続けた。「あなたはまだ若い。それに、私がちゃんと祓いをしてあげるから」
老婆は懐から塩を取り出し、私の周りに振りまいた。そして、何やら呪文のようなものを唱え始めた。
「これで大丈夫。さあ、早く帰りなさい。日が暮れる前に」
老婆に促され、私は急いで神社を後にした。振り返ると、老婆の姿はもう見えなかった。
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それから一週間後。私は転校先の学校に少しずつ馴染み始めていた。休み時間、同じクラスの佐藤という男子が話しかけてきた。
「中島、この前八雲神社に行ったって本当?」
「え、うん。なんで知ってるの?」
佐藤は真剣な表情で言った。「あそこはマジでヤバいんだ。十年前に廃社になってるから」
「廃社?でも先週行ったよ。確かに荒れてはいたけど…」
「いや、社殿は火事で全焼して、再建されてないんだ。しかも、その時の火事で神主の娘さんが亡くなったって…」
私の血の気が引いた。「でも、白い着物の老婆がいたよ。神主か巫女みたいな人」
佐藤の顔色が変わった。「マジかよ…それってもしかして…」
その日の放課後、佐藤の案内で地元の図書館に行った。郷土資料室で、十年前の新聞記事を見つけた。
「八雲神社で火災、神主の娘が犠牲に」
記事によれば、十年前の夏、落雷による火災で社殿が全焼。当時八十歳だった神主の娘、山崎サチ子さんが亡くなったという。添えられた写真には、白い着物姿の老婆が写っていた。紛れもなく、私が会った人物だった。
震える手で記事を読み進めると、さらに恐ろしい事実が書かれていた。
「八雲神社には『影取りの鏡』と呼ばれる鏡が祀られており、地元では『鏡に映った自分が動けば、死期が近い』という言い伝えがあった。皮肉なことに、火災当日、サチ子さんは鏡の前で祈りを捧げていたという」
私は身震いした。亡くなったはずの老婆に会い、死者の言い伝えを聞いたのだ。
「戻ろう」と私は佐藤に言った。「あの神社に」
夕暮れ時、私たちは八雲神社に着いた。予想通り、鳥居はあるものの、その先は荒れ果てた空き地になっていた。社殿の跡地と思われる場所には、焼け焦げた柱の残骸があるだけ。御神木だと思った巨大な楠の木も、実際は焼け残った幹だけだった。
そして、祠もなかった。
「おかしい…確かにここで鏡を見たんだ」
佐藤が懐中電灯で周囲を照らすと、地面に何かが光った。近づいてみると、それは鏡の破片だった。
「これかも…」
手に取った瞬間、風が吹いた。木々が揺れ、どこからともなく老婆の声が聞こえた。
「気をつけなさい…鏡は嘘をつかない…」
次の瞬間、懐中電灯が消え、辺りは闇に包まれた。恐怖で固まる私たちの耳に、かすかな笑い声が聞こえた。
それから一ヶ月後、佐藤は交通事故で亡くなった。事故現場に駆けつけた目撃者の証言によれば、彼は事故直前、道路脇の鏡の前で立ち止まり、何かに驚いたような表情を浮かべていたという。
あれから三年が経った今も、私は鏡を見るのが怖い。特に夏の夕暮れ時、鏡に映る自分の顔が、ほんの少しでも動いたように見えると、あの老婆の言葉を思い出す。
「鏡は嘘をつかない…」
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「影取りの鏡」の伝説は、日本の複数の地域に存在します。特に、静岡県にある廃社となった神社には、かつて「影取りの鏡」と呼ばれる鏡が祀られていたという記録が残っています。この鏡に映った自分の姿が動いたり、表情が変わったりすると、その人に不幸が訪れるという言い伝えがありました。
2005年の夏、この神社跡を訪れた大学生のグループが、写真撮影中に異変を感じたという証言があります。現像された写真には、誰も立っていなかったはずの場所に、白い着物姿の人影が写っていたそうです。その後、写真に写っていた学生の一人が原因不明の体調不良に見舞われ、入院するという出来事があったといいます。
現在でも、特に夏の夕暮れ時、鏡に映る自分の姿が一瞬でも違和感を覚えさせたら、それは何かの前兆かもしれません。