真夏の憑き物
記録的な猛暑が続いていた。気象庁の発表によれば、この夏は観測史上最も暑い夏になるという。高校二年の私たち水泳部員は、そんな酷暑の中でも毎日練習に励んでいた。
「雪乃、今日もやばい暑さだね」
更衣室で制服に着替えながら、親友の美咲がため息をついた。彼女の頬は異常に赤く、額には汗が滲んでいた。
「大丈夫?顔色悪いよ」と私。
「平気、平気。ちょっと疲れてるだけ」
そう言って笑う美咲だったが、帰り道、彼女は突然その場に崩れ落ちた。
「美咲!」
駆け寄ると、彼女の体は異常に熱く、意識も朦朧としていた。
「熱中症だ!」
すぐに救急車を呼び、美咲は病院に運ばれた。医師の診断は予想通り「熱中症」。点滴と冷却で症状は落ち着き、翌日には退院できるという。
「もう少し早く気づいてあげれば…」
病室で眠る美咲の横で、私は自分を責めていた。
その夜、携帯に美咲からメッセージが届いた。
『明日退院するけど、なんだか体がおかしい。熱は下がったのに、中から燃えるような感じがする。先生には言ってないけど、怖い』
心配になった私は、翌朝早くに病院へ向かった。病室に入ると、美咲はベッドに座り、窓の外を見つめていた。
「美咲、調子はどう?」
振り返った彼女の顔を見て、私は息を呑んだ。顔色は良くなっていたが、目の光が違う。何か別の人が美咲の中から覗いているような、そんな違和感があった。
「あ、雪乃。来てくれたんだ」
声も普段より少し低く、話し方にも違和感があった。
「退院できるって聞いたよ。良かったね」
「うん…でも、なんだか変な感じがするの」美咲は自分の手を見つめながら言った。「自分の体なのに、自分の体じゃないみたいな」
「それって…熱中症の後遺症とかじゃない?」
「違うと思う」美咲の声が震えた。「昨日から、知らない記憶が頭に浮かぶんだ。私じゃない誰かの記憶みたいな…」
その日、美咲は無事に退院したが、様子はますますおかしくなっていった。学校では突然、誰かに話しかけるように独り言を言ったり、見たこともない達筆な字で何かを書き始めたりした。
一週間後、私は美咲の家を訪ねた。両親が出張中で彼女は一人暮らしをしていたが、部屋に入った瞬間、異様な暑さに襲われた。エアコンは消えており、窓も閉め切られていた。
「美咲?」
リビングで見つけた彼女は、汗一つかかず正座をしていた。
「雪乃、来てくれたのね」
その声は明らかに美咲のものではなかった。より年上の、落ち着いた女性の声だった。
恐怖で足がすくんだ。「あなた…美咲じゃないでしょ?」
「賢いわね」美咲の体を借りた何者かが微笑んだ。「私は木村サヤ。六十年前、この町で熱射病で亡くなったの」
「嘘…」
「信じられないでしょうけど、本当よ」サヤと名乗る存在は続けた。「あの日、私も今の彼女のように暑い日に倒れたの。でも私は目が覚めなかった…死んでしまったのよ」
「どうして美咲に…」
「彼女が倒れた場所は、私が最期を迎えた場所。彼女の魂が一瞬でも体を離れた時、私は入り込んだの」
「出ていって!」私は叫んだ。「美咲の体から出ていって!」
「出ていきたいわ」サヤは悲しそうに言った。「でも、それには条件があるの。私が果たせなかった約束を、彼女の体を借りて果たさなければならない」
「約束?」
「私が死んだ日、婚約者の清一と夏祭りに行く約束をしていたの。でも、叶わなかった…」サヤの声が震えた。「彼は私を待ち続け、結局独身のまま十年前に亡くなった。彼の魂は今も私を待っているのよ」
「それで、美咲の体で何をするつもり?」
「明日は八月十五日、私が死んだ日。そして、この町の夏祭りの日。彼との約束を果たし、一緒に成仏したいの」
私は考えた。サヤの言うことが本当なら、明日の夏祭りで約束を果たせば、美咲は元に戻るかもしれない。
「分かった。協力する。でも、約束を果たしたら、必ず美咲を返して」
「ええ、約束するわ」
翌日、私はサヤ(美咲の体)と共に夏祭りへ向かった。サヤの指示で、美咲に浴衣を着せ、髪を昭和初期の女学生のように結った。
「彼はどこで待っているの?」
「社の裏、大きな楠の木の下よ」
神社の境内は祭りの人でごった返していたが、サヤは迷うことなく人混みをかき分け、裏手へと向かった。そこには確かに樹齢数百年と思われる巨大な楠の木があった。
「清一、来たわよ」
サヤは木に向かって語りかけた。しかし、返事はない。
「おかしいわ…ここで待つって約束したのに」
その時、私は木の幹に埋め込まれた小さな石碑に気づいた。「木村清一 追悼碑」と刻まれている。
「サヤさん、これ…」
サヤは石碑を見て、涙を流した。「そうか…彼はもう成仏したのね」
突然、美咲の体が揺らめき、その場に崩れ落ちた。駆け寄ると、彼女はゆっくりと目を開けた。
「雪乃…?私、どうしたの?」
その声は間違いなく美咲のものだった。
「美咲!戻ったの?」
「戻った?何の話?」美咲は混乱していた。「私、熱中症で倒れたのは覚えてるけど、その後のことはほとんど…」
サヤは去ったようだった。約束を果たせなかったにも関わらず、清一が既に成仏したことを知り、彼女も諦めたのだろうか。
帰り道、私は美咲に一連の出来事を説明した。彼女は信じられないという表情だったが、最後にはこう言った。
「でも、なんだか不思議な夢を見ていたの。白い浴衣を着た女の人と、制服姿の若い男性が手を繋いで歩いていく夢…」
その夜、私は不思議な夢を見た。サヤと思われる若い女性が、清一と思われる男性と共に、明るい光の中を歩いていく姿だった。サヤは振り返り、「ありがとう」と微笑んだ。
翌朝、美咲から電話があった。
「雪乃、うちの縁側で変なもの見つけたんだけど」
駆けつけると、美咲は古い写真を手に持っていた。白黒写真の中には、若い女性と男性が写っている。裏には「昭和18年8月 サヤと清一」と書かれていた。
「これって…」
「ええ、間違いないわ」
その後、私たちは地元の図書館で「木村サヤ」について調べてみた。すると、昭和18年の地元新聞に小さな記事が見つかった。
「8月15日、記録的猛暑の中、木村サヤ(19)が熱射病で倒れ、死亡。婚約者の清一(20)は彼女を待ち続け、戦地へ赴く前日だった」
さらに、戦後の記録では、清一は戦地から帰還したものの、生涯独身を貫き、十年前に亡くなったという記述もあった。そして彼の遺言で、初恋の人との思い出の場所である楠の木の下に、追悼碑が建てられたという。
それから数年経った今でも、猛暑の日に熱中症で倒れる人の中には、一時的に人格が変わったように見える症例があるという。医学的には「熱射病による一過性の精神障害」とされているが、私たちは知っている。時々、夏の暑さの中で魂が入れ替わることがあるのだと。
私はいつも夏になると、あの神社の楠の木を訪れる。そこで線香を上げ、サヤと清一が無事に結ばれたことを祈るのだ。