縁側の客人
高校二年の夏休み、私は父方の祖母が住む宮城県の山間部の村に一人で滞在することになった。東京の喧騒から離れ、蝉の声が響く静かな田舎で過ごす予定だった。
祖母の家は築百年を超える古い農家造りで、広い縁側があった。子供の頃から夏になると訪れていたが、今年は両親が海外出張で不在のため、一人での滞在となった。
「葉子、到着したらすぐに連絡するんだよ」
新幹線に乗る前、母がしきりに言った。実は祖母は最近、少し物忘れがひどくなっていた。私の滞在は、祖母の様子を見るという目的もあったのだ。
村に着いたのは、七月下旬の夕方だった。駅から祖母の家までは歩いて三十分ほど。懐かしい田んぼ道を歩いていると、夕陽に照らされた田園風景が広がっていた。
「葉子ちゃん、よく来たねぇ」
祖母は玄関先で私を待っていた。八十歳を過ぎているのに、まだしっかりとした足取りで歩く。物忘れは確かにあるようだが、日常生活に支障はなさそうだった。
その日は到着したばかりで疲れていたので、夕食後すぐに寝ることにした。私が使うのは二階の客間。窓からは村全体が見渡せる。
翌朝、爽やかな風と共に目が覚めた。窓から差し込む朝日が眩しい。下に降りると、祖母は既に朝食の支度をしていた。
「よく眠れた?」祖母が笑顔で聞いた。
「うん、すごく」
朝食後、祖母は庭の草取りを始めた。手伝おうとすると、
「葉子ちゃんは休んでなさい。縁側でトマトでも食べるといい」
と言って、真っ赤なトマトを二つ渡してくれた。
言われるままに縁側に座り、庭を眺めながらトマトを頬張った。夏の日差しは強かったが、軒下の縁側は心地よい風が通り抜ける。
しばらくすると、庭の向こうにある小さな祠が目に入った。
「祖母ちゃん、あれは何の祠?」
「ああ、あれは『客人神』を祀ってるんだよ」祖母は草取りの手を止めて答えた。「この家に訪れる客人を守る神様さ」
その日の午後、私は村を散策した。小学校の同級生だった友人に会ったり、懐かしい場所を訪ねたりして過ごした。
家に戻ったのは夕方だった。祖母は夕食の支度をしていて、私は再び縁側に座った。日が傾き始め、庭に長い影が伸びていた。
ふと、庭の隅に人影を見つけた。小柄な子供のような姿だ。
「こんにちは」
思わず声をかけると、その影はすっと消えた。気のせいだったのかもしれない。
夕食時、その話を祖母にすると、祖母は静かに微笑んだ。
「それはきっと『客人』だよ」
「客人?」
「この家には時々、見えない客人が訪れるんだ」祖母は懐かしむように言った。「特に夏の夕暮れ時、縁側に座っていると現れることがある」
「幽霊ってこと?」少し不安になって聞いた。
「いいえ、怖いものじゃないよ」祖母は首を振った。「この家を守ってくれる存在さ。昔から『客人神の使い』と言われてきた」
その夜、私は不思議な夢を見た。縁側に座っていると、小さな子供が隣に座る。顔はよく見えないが、どこか懐かしい気配だった。子供は何も言わず、ただ並んで座っているだけ。不思議と恐怖は感じなかった。
翌朝、祖母に夢の話をすると、
「あなたを気に入ったんだね」と嬉しそうに言った。
その日から、私は毎日夕方になると縁側に座るようになった。不思議なことに、毎日同じ時間に庭の隅に小さな影が現れるのだ。最初は一瞬だけだったが、日に日に長く見えるようになってきた。
一週間ほど経った頃、私は思い切って祖母に尋ねた。
「祖母ちゃん、この家の『客人』って、本当は何なの?」
祖母はしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「実はね、その『客人』は、六十年前に亡くなった私の弟なんだ」
祖母の弟・勝は、七歳の時に川で溺れて亡くなったという。祖母が十歳の時の出来事だった。
「勝は夏が大好きだった」祖母は遠い目をして語った。「特に縁側で西瓜を食べるのが楽しみでね。亡くなった日も、『今日は縁側で西瓜を食べるんだ』と言って川に行ったんだ」
悲しい話だった。勝少年は西瓜を食べられないまま命を落としたのだ。
「でもね、不思議なことに、勝が亡くなった後、夏になると縁側に小さな影が見えるようになったんだ」祖母は続けた。「最初は怖かったけど、それが勝だと分かってからは、毎年夏が来るのが楽しみになった」
「じゃあ、私が見ているのも…」
「そう、きっと勝だよ」祖母は微笑んだ。「あなたのことを気に入ったんだね」
その話を聞いてから、私は毎日夕方になると、縁側に西瓜を置くようになった。不思議なことに、次の朝になると、西瓜には小さな歯形がついていた。
祖母は「気のせいよ」と言ったが、目は笑っていた。
夏休みも後半に差し掛かった頃、ある出来事が起きた。
その日は珍しく大雨で、私は家の中で過ごしていた。夕方になると雨は上がり、庭には大きな水たまりがいくつもできていた。
縁側に座っていると、いつものように庭の隅に小さな影が現れた。しかし今日は違った。影はゆっくりと私の方に近づいてきたのだ。
恐怖で動けなくなった私。影は縁側の前まで来ると立ち止まり、私をじっと見つめた。
薄暗い中でもはっきりと見えた。小さな男の子の姿。古い服装をした七歳くらいの男の子が、濡れた姿で立っている。
「あ、あなたが勝くん?」
震える声で尋ねると、男の子はゆっくりと頷いた。そして、口を開いた。
「危ない」
かすれた声だった。
「何が危ないの?」
「水…気をつけて」
そう言うと、男の子の姿は霧のように薄れていった。
その夜、激しい雷雨が村を襲った。川の水かさが急激に増し、村の低地は浸水の危険があるという。
「大丈夫かしら」祖母が心配そうに窓の外を眺めていた。
その時、私は勝くんの言葉を思い出した。
「祖母ちゃん、二階に上がろう」
「え?でもまだ家の中までは…」
「お願い、今すぐ」
半ば強引に祖母を二階に連れていった。荷物もできるだけ持ち上げた。
その一時間後、村に緊急放送が流れた。上流のダムが限界に達し、放水するという。そして予想通り、放水後に水かさが一気に増し、祖母の家の一階部分が床上浸水した。
「葉子ちゃん、どうして分かったの?」祖母が震える声で聞いた。
「勝くんが教えてくれたんだよ」
その言葉に、祖母の目から涙がこぼれ落ちた。
翌朝、水は引き始めていた。一階は泥だらけになっていたが、大切なものは二階に運んでいたので無事だった。
村の他の家々は深刻な被害を受けたが、不思議なことに祖母の家だけは比較的軽い被害で済んだ。
その日の夕方、水が引いた庭の縁側に座っていると、いつものように勝くんの姿が見えた。今日は昨日よりもはっきりと見える。
「ありがとう、勝くん」
心からの感謝を込めて言うと、勝くんは珍しく笑顔を見せた。そして、
「また来年」
と言って、姿を消した。
それが、私が勝くんを見た最後の日となった。残りの滞在期間、どれだけ縁側で待っても、彼の姿は現れなかった。
夏休みが終わり、東京に戻る日。祖母が駅まで見送ってくれた。
「葉子ちゃん、来年もまた来てね」
「うん、必ず来るよ」
電車に乗り込む前、祖母がそっと私の手に何かを握らせた。開いてみると、古い木製の笛だった。
「これは勝の形見だよ」祖母は優しく言った。「彼があなたを選んだんだ。これからはあなたを守ってくれるだろう」
───
これは私が高校二年の夏に経験した出来事だ。あれから十年が経ち、祖母は昨年亡くなった。しかし、私は毎年夏になると必ずあの家を訪れる。
そして不思議なことに、私が縁側に座ると、いつも小さな影が見える。もう勝くんだけではない。祖母の姿も一緒にあるのだ。
「客人神」を祀る祠は今も健在で、私はそこに毎年西瓜を供える。翌朝には必ず、小さな歯形と、祖母の好きだった飴の包み紙が残されている。
東北地方の山間部には、古くから「客人神」の信仰がある。訪れる客人を守る神様として祀られているが、同時に、家を守る祖先の霊も宿るとされている。特に宮城県の一部地域では、水難事故で亡くなった子供の霊が家族を水害から守ると伝えられてきた。