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怖い話  作者: 健二
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陽炎の祟り


高校二年の夏休み、私は父の研究のため、四国の山間にある水神村みずがみむらに滞在していた。父は民俗学者で、この村に伝わる伝説「陽炎神かげろうがみ」の調査が目的だった。


村は想像以上に辺鄙な場所にあり、バスは一日二本しか通わなかった。周囲を深い山に囲まれた盆地状の地形で、夏は異常なほどの暑さになるという。


「水神村は昔から特殊な場所なんだ」と父は説明してくれた。「この村では昔から、真夏の正午に『陽炎神』が現れると言われている。暑さの中で見える蜃気楼のような現象を神格化したものだが、興味深いのは、この村の人々が本気でその存在を信じていることだ」


私たちは村の中心にある古い旅館に宿泊した。宿の女将は七十代くらいの痩せた老婆で、私たちの目的を聞くと少し表情を曇らせた。


「陽炎神の調査ですか…」女将は言葉を選ぶように話した。「あまり深入りしない方がいいですよ。特に、正午の炎天下に一人で野原に出るのはやめてください」


その夜、父は村の古老たちと話をするため出かけ、私は一人宿に残った。古い木造の旅館は冷房もなく、扇風機だけでは汗が止まらなかった。窓を開けて風を入れようとしたとき、廊下から話し声が聞こえてきた。


「またあの学者が来たって?陽炎神の話を聞きに?」

「大丈夫かね。去年の大学生のこともあるのに」

「あれは自業自得さ。正午に一人であの野原に行くなんて…」


声は遠ざかり、続きは聞こえなくなった。去年の大学生?何があったのだろう。


翌朝、父は早くから村人たちの話を聞くために出かけた。「陽志郎、昼には戻るから、それまで村を散策してもいいぞ。ただし、正午前には必ず宿に戻ってこい」


父の言葉に頷き、私は村を歩き始めた。小さな村だったが、どの家も古く風情があり、時間が止まったような静けさが漂っていた。ただ不思議なことに、どの家も窓に赤い布が掛けられていた。


「あれは何のためなんだろう?」地元の中学生らしき少年に尋ねると、彼は当たり前のことを言うように答えた。


「陽炎神の目よけだよ。赤い布があると、陽炎神は家の中が見えないんだって」


少年の話によれば、陽炎神は真夏の正午、強い日差しの中に現れる神様だという。姿は見えないが、揺らめく熱気の中に存在し、目を合わせると魂を持っていかれるという。だから村人は正午になると家の中に閉じこもり、赤い布で窓を覆うのだそうだ。


「去年、東京から来た大学生が陽炎神に取り憑かれたんだ」少年は恐ろしそうな顔で言った。「あいつは正午に村はずれの野原で調査してて、急に奇妙な行動を始めたんだ。自分の影を踏まないように歩いたり、鏡に映った自分を怖がったり…三日後に急に高熱を出して、救急車で運ばれたよ。それから村には戻ってこない」


少年の話は作り話のようにも思えたが、どこか引っかかるものがあった。宿に戻る途中、村はずれの野原が見えた。一面の草原で、強い日差しを遮るものは何もない。遠くで熱気が揺らめき、蜃気楼のように景色が歪んで見える。


時計を見ると11時40分。父の言いつけ通り、正午前に宿に戻るべきだが、あと少しだけ…という好奇心が湧いてきた。陽炎神なんて迷信だろう。少しだけ野原に近づいてみよう。


野原に足を踏み入れると、想像以上の暑さだった。頭上から容赦なく照りつける太陽、足元からは照り返しの熱気。ハンカチで汗を拭きながら、私は野原の中央へと進んでいった。


時計は11時55分。もう少しで正午だ。そろそろ引き返そうと思った矢先、不思議な現象が起きた。私の周りの空気が歪み始めたのだ。まるで水面に映った景色のように、全てが波打って見える。


「気のせいだ」と自分に言い聞かせたが、異変は続いた。風もないのに草が揺れ、そして…私の影が動いた。


確かに私が止まっているのに、足元の影がゆっくりと動き、まるで別の生き物のように振る舞い始めた。恐怖で足がすくみ、声も出ない。影は少しずつ私から離れ、独立した形になっていく。


時計は正午を指していた。


影は完全に私から分離し、黒い人型となって立ち上がった。顔はないが、こちらを見ているのが分かる。そして耳元で囁く声が聞こえた。


「あなたの影を、いただきます」


パニックになって走り出した私は、足を滑らせて転倒した。顔を上げると、黒い人影が目の前に立っていた。熱気の中で形が揺らめき、時に人に、時に獣のような姿に見える。


「逃げられません。あなたの影は私のもの」


声は頭の中に直接響いてくる。息苦しさを感じ、視界が狭まっていく。このまま意識を失うのかと思ったとき、誰かが私の名前を呼ぶ声が聞こえた。


「陽志郎!動くな!」


父の声だった。父は赤い布を手に持ち、私の方へ走ってきていた。黒い人影は父を見ると、一瞬躊躇したように見えた。


父は赤い布を私の上に被せ、何かを唱え始めた。古い言葉で書かれた祝詞のようなものだ。布越しに見える外の世界は赤く染まり、黒い人影の姿は見えなくなった。


「大丈夫か?」父が布を取り除くと、既に正午は過ぎ、黒い人影は消えていた。ただ、地面に私の影が戻っていないことに気づいた。


「影が…」


「宿に戻ろう」父は静かに言った。「ここは危険だ」


宿に戻ると、父は事情を説明してくれた。陽炎神とは古来より信じられてきた熱の精霊で、特にこの村では強く信仰されているという。毎年夏になると、村人は家に閉じこもり、赤い布で窓を覆う。赤は陽炎神を惑わせる色だと信じられているからだ。


「去年の大学生は影を奪われた」父は真剣な顔で言った。「影を失った人間は、やがて自分の存在そのものを失っていく。記憶が薄れ、人格が崩壊し、最後には肉体も消えていくんだ」


「じゃあ、僕も…」


「心配するな。お前の影はまだ完全には奪われていない」父は言った。「村には陽炎神の祟りを解く方法を知る人がいる。女将さんに紹介してもらおう」


その夜、女将の案内で村はずれの小さな祠を訪れた。そこには百歳を超えるという老巫女が住んでいた。彼女は私の状態を見ると、深刻な表情で頷いた。


「影が薄くなっておる。陽炎神に半分奪われたな」


「治りますか?」父が訊ねると、老巫女はゆっくりと頷いた。


「治せる。だが代償が必要じゃ」


老巫女の言う代償とは、私の大切な記憶だった。影と引き換えに奪われた記憶は戻らないという。どの記憶が失われるかは分からないが、何か重要なものを忘れることになる。


恐ろしい選択だったが、私に選択肢はなかった。儀式は夜中に行われた。老巫女は赤い糸で私の足首を縛り、古い言葉で祝詞を唱えた。部屋に置かれた水盆に月光が反射し、水面に私の影が映り始めた。


「水の中の影を掴め」老巫女が命じた。


私が水に手を入れると、冷たさではなく焼けるような熱さを感じた。それでも言われた通り、水面に映る影を掴もうとした。指先が影に触れた瞬間、激しい痛みが走り、私は叫び声を上げた。


次に目が覚めたのは翌朝だった。体に力が戻り、地面には確かに私の影が映っていた。しかし、何かが違う。頭の中が靄がかかったように曖昧で、何かを忘れているような感覚があった。


「儀式は成功したようだ」父は安堵の表情を見せた。「ただ、何か記憶を失ったかもしれない。何か思い出せないことはあるか?」


考えてみたが、特に思い当たらない。むしろ、すっきりとした気分だった。ただ、母の顔がぼんやりとしか思い出せないことに気づいた。彼女は私が小さい頃に亡くなったが、その記憶が薄れていたのだ。


「代償は払われた」老巫女は言った。「二度と正午の野原に行くでないぞ」


その後、私たちは調査を切り上げて東京に戻った。父は陽炎神について論文を書き、民俗学会で発表した。しかし、私の体験については一切触れなかった。


あれから五年が経ち、私は大学で心理学を学んでいる。時々、鏡や水たまりに映る自分の影が揺らめいて見えることがあるが、それ以外に異常は感じていない。ただ、母の顔や声はもう思い出せない。


そして、毎年夏になると、炎天下の正午に何か懐かしいものを求める気持ちが湧いてくる。まるで自分の一部が、どこか遠くで私を呼んでいるかのように。


---


2015年8月、私は民俗学研究のため四国の山村を訪れていた。現地の古老から「正午の怪異」について聞き取り調査をしていたとき、興味深い証言を得た。


村には「日中に出る幽霊」の伝承があり、特に真夏の正午に集中して目撃例があるという。地元の人々は「陽炎に紛れて現れる」と表現し、多くの場合、亡くなった家族や先祖の姿だという。


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