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怖い話  作者: 健二
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夏の峠道、石の守り神


あれは高校二年の夏休み、一人旅で訪れた信州の山村での出来事だった。


私は昔から歴史と民俗学に興味があり、特に古い道標や道祖神を訪ね歩くのが趣味だった。その年の夏は「失われゆく道祖神を訪ねて」というテーマで自由研究を計画し、古い峠道が残る長野県の奥山へと向かった。


土地神どちがみ峠に行くつもりなの?」


宿の女将さんが驚いたように言った。私が明日の予定を話したときのことだ。


「ええ、あそこには江戸時代の道祖神が残っているって聞いたんです」


「確かにあるけど…」女将さんは言葉を濁した。「あそこはね、夏場はあまり行かない方がいいんだよ」


「どうしてですか?」


「暑さで頭がおかしくなる人がいるからね。特に午後二時から四時の間は日差しが強くて…」


それだけ言うと、女将さんは話題を変えた。私はそれ以上追及しなかったが、好奇心はますます強くなった。


翌朝、私は早めに宿を出発した。女将さんの言葉が気になり、暑い時間帯を避けるためだ。土地神峠は村から歩いて一時間ほどの場所にあった。


山道を登っていくと、途中で古い鳥居が現れた。苔むした石の鳥居で、明らかに長い年月を経ていた。鳥居をくぐると細い山道が続き、両側には鬱蒼とした木々が生い茂っていた。


さらに十分ほど歩くと、小さな祠が見えてきた。そこには確かに道祖神が祀られていた。男女一対の姿で、風化していたが、江戸時代の作とされる独特の様式だった。


「これが土地神峠の道祖神か」


私はカメラを取り出し、様々な角度から写真を撮り始めた。道祖神の彫刻は素朴ながらも味わい深く、地元の石工の技術がうかがえた。


写真を撮り終えると、私はノートに特徴を記録し始めた。そのとき、不意に後ろから声がした。


「お客さん、峠の神様に詣でるのかい?」


振り向くと、そこには七十代くらいの老人が立っていた。山仕事の道具を持ち、汗を拭いながらこちらを見ていた。


「はい、研究のために来ました」と答えると、老人は道祖神を見つめた。


「そうかい。でも、今日はもう引き返した方がいいよ」


時計を見ると、まだ午前11時だった。


「まだ早いですし、もう少し調査したいんです」


「時間じゃないんだ」老人は首を横に振った。「雲が出てきた。この峠は天気が変わると危ないんだ」


確かに空を見ると、先ほどまで青かった空に薄い雲が広がり始めていた。


「あと30分だけ」と私は頼んだ。「すぐに下山します」


老人はため息をついた。「じゃあ、これを持っていきな」


そう言って、老人は小さな布袋を私に渡した。中には塩と、何かの植物の葉が入っていた。


「峠の上に着いたら、道祖神様にお供えして、塩を撒いておくんだよ。そうすりゃ、向こうも通してくれる」


不思議に思ったが、地元の習わしなのだろうと思い、私は素直に受け取った。老人は「気をつけな」と言い残して、山を下りていった。


私は再び調査を始めた。道祖神の周りには小さな石が積まれ、古い絵馬や花が供えられていた。絵馬には「無事通行」「厄除け」などの文字が読み取れた。


30分ほど経ったとき、突然空が暗くなった。雲が厚くなり、遠くで雷の音が聞こえ始めた。私は約束通り、峠を目指すことにした。道祖神から先は急な上り坂になっており、峠の頂上までは15分ほどかかるという道標があった。


「雨が降る前に行って戻ろう」


私はそう決め、急ぎ足で坂を上り始めた。しかし、歩けば歩くほど、不思議な感覚に襲われた。背中に誰かの視線を感じるのだ。何度か振り返ったが、誰もいない。


峠に着くと、そこには古い石碑が立っていた。「土地神峠 安全祈願」と刻まれている。老人から渡された塩と葉を石碑の前に置き、塩を周囲に撒いた。


「お守りください」と小さく呟いた私は、すぐに引き返そうとした。


その時だった。


「おーい」


遠くから誰かが呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、峠の向こう側に人影が見える。手を振っているようだ。


「どうしたんだろう」


私は立ち止まり、その人影を見つめた。よく見ると若い男性のようで、私と同じくらいの年齢に見えた。


「ちょっと、待ってくれ!」


男性は私に向かって走ってきた。何か困っているのかもしれない。私は彼が近づいてくるのを待った。


しかし、不思議なことに、男性は近づいてくるのに、その姿がはっきりと見えなかった。まるで霞がかかったように、輪郭がぼやけていたのだ。


男性が十メートルほどの距離まで来たとき、突然空が裂けるような雷鳴が響き、私は思わず目を閉じた。


目を開けると、そこに男性の姿はなかった。


「おかしいな…」


私は混乱した。幻覚だったのだろうか。それとも男性は雷に驚いて隠れたのか。


しかしその時、背後から冷たい風が吹き、私の首筋に誰かの息が吹きかかるのを感じた。


「通してくれるって言ったよね」


囁くような声。振り向こうとした私の肩を、冷たい手が掴んだ。


「お前の体、借りるよ」


恐怖で足がすくみ、声も出なかった。しかし、老人が渡してくれた塩の袋がポケットの中で熱くなり、私は咄嗟にそれを取り出して後ろに投げつけた。


「ぎゃあっ!」


悲鳴とともに、肩を掴んでいた手が離れた。私は振り返らず、全力で峠を駆け下りた。道祖神の祠を過ぎ、鳥居をくぐり、ようやく村の近くまで来たとき、激しい雨が降り始めた。


宿に着くと、私は全身ずぶ濡れになっていた。女将さんは驚いた顔で私を迎え、すぐに風呂を用意してくれた。


「言ったでしょ、あの峠は夏場は危ないって」


風呂上がりに部屋で休んでいると、女将さんがお茶を持ってきてそう言った。


「あの、女将さん…土地神峠には何かいるんですか?」


女将さんは一瞬ためらったが、やがて小さな声で話し始めた。


「土地神峠の道祖神様は、旅人を守る神様なんだけど、夏の間だけは違うんだよ」


「違うとは?」


「夏になると、あの道祖神様は『通行料』を取るんだ。昔から、夏場にあの峠を通る時は必ず何かをお供えしなきゃいけない。お供えがない人には、道祖神様の使いが取り憑くって言われてる」


私は背筋が凍る思いだった。あの男性の姿は…


「でも、あなたは無事で良かった」女将さんは微笑んだ。「誰に会ったの?山で」


「老人です。塩と葉っぱの入った袋をくれて…」


女将さんの顔から血の気が引いた。


「老人?どんな格好をしていた?」


「山仕事の道具を持って…」


「それは森田さんだ」女将さんは震える声で言った。「でも、森田さんは三年前に亡くなっている。あの峠で行方不明になって、一週間後に遺体で発見されたんだよ」


私は言葉を失った。


「あなた、本当に運が良かったんだね」女将さんは続けた。「森田さんは生前、あの峠の道祖神様を大切にしていた人だった。きっと、あなたを守ってくれたんだよ」


その夜、私は眠れなかった。窓の外では雨が降り続け、時折雷鳴が響いた。枕元に置いた塩の袋(女将さんが新しく作ってくれたもの)が、私に安心感を与えてくれた。


翌朝、天気は回復し、眩しいほどの晴天だった。私は土産物屋で絵葉書を選んでいると、店の隅に飾られた古い写真に目が留まった。


「これは…」


写真には土地神峠の道祖神が写っていた。しかし、よく見ると、道祖神の後ろに人影が写っている。若い男性の姿だ。


「あ、それに興味があるの?」店主が言った。「あれは昭和初期に撮られた写真でね、実はこの写真、有名なんだよ」


「どうしてですか?」


「写真を撮った人が、撮影の三日後に亡くなったからさ。原因不明の高熱で」店主は続けた。「それ以来、あの峠では、夏になると若い男の人影が見えるって言われているんだ。『土地神の使い』ってね」


私は震える手で写真を見つめた。写っている男性の顔は、峠で見た男性にそっくりだった。


その日、私は予定を変更して村を離れた。それから十年以上が経ったが、私は二度とあの峠を訪れていない。


ただ、毎年夏になると、塩と特定の葉を包んだ小さな袋を作り、遠く離れた場所から土地神峠の方角に向けて供えるようにしている。約束は守らなければならないから。


---


長野県の山間部には、今でも多くの道祖神が残されている。特に古い峠道には、旅人の安全を祈願する道祖神が数多く祀られている。


昭和50年代、民俗学者の間で「夏の道祖神現象」と呼ばれる怪異が報告された。これは主に7月下旬から8月中旬にかけて、古い峠道で道に迷った人が「道案内をしてくれる人物」に出会うというものだ。


興味深いのは、その人物の特徴が地域によって異なることだ。若い男性の姿で現れる地域もあれば、老人や子供の姿で現れる地域もある。しかし共通しているのは、その人物に従って歩くと、必ず道祖神の前に連れて行かれるということだ。


さらに、この現象を経験した人の多くが、その後数日間、微熱や倦怠感に悩まされたという。民俗学者たちは、これを「道祖神熱」と名付けた。

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