海の御神渡り
海水浴シーズンの真っ盛り、8月初旬のことだった。私たち美術部の面々は、夏合宿と称して静岡県の小さな漁村「鰐浦」を訪れていた。
顧問の野口先生の実家が廃業した民宿で、格安で宿泊させてもらえるという話だった。名前の由来は、入り江の形が鰐の口に似ていることからだという。
「この浜は絵を描くにはうってつけだよ。夕暮れになると水平線が赤く染まって、まるで海に道ができるみたいになるんだ」
野口先生はそう言って、私たち5人を連れてきた。私、水嶋琴音と親友の三浦さくら、それに男子の松本、大井、齋藤の3人。全員高校2年生だ。
鰐浦は思ったよりずっと閑散としていた。かつては観光客でにぎわったという海水浴場も、今では地元の人が時々釣りをする程度だという。
「この辺りは十年ほど前から、遊泳禁止になったんだ」
野口先生が浜辺に立てられた古い看板を指さした。「危険」と赤字で書かれている。
「溺死事故があったの?」とさくらが尋ねた。
「まあ、そんなところだ」先生は曖昧に答え、話題を変えた。「さあ、荷物を置いたら早速スケッチに出かけよう」
宿は海からほんの百メートルほどの場所にあった。二階建ての古い木造建築で、至るところに潮風の匂いが染みついている。壁には色あせた漁師たちの写真や、魚拓が飾られていた。
「琴音、これ見てよ」
部屋に荷物を置いた後、さくらが私を呼んだ。廊下の壁に掛かった一枚の写真を指差している。
それは海岸を撮影した白黒写真だった。浜辺に立つ数人の漁師と、その背後の海。しかし、不思議なことに海の上に細い道のようなものが写っている。まるで水面の上に道ができているかのようだった。
「これ、合成写真?」
「いいえ、それは御神渡りと呼ばれるものですよ」
振り返ると、そこには年配の女性が立っていた。先生の母親だという森本さんだ。
「御神渡り?諏訪湖の氷が割れる現象ですか?」と私は聞いた。
「ここではそう呼んでるんです。毎年旧暦の七月七日、夕暮れに起こる現象で…」森本さんは少し言いよどんだ。「まあ、単なる漁師の言い伝えですよ。さあ、あなたたち、お腹空いたでしょう?お昼にしましょう」
その日の午後、私たちは浜辺でスケッチをした。夏の日差しは強かったが、海からの風が心地よかった。不思議なことに、近隣の海水浴場は人でにぎわっているのに、この浜だけは誰もいない。
「なんで誰も来ないんだろう」松本が首をかしげた。「水も綺麗だし、砂浜も広いのに」
「地元の人は来ないんだって」齋藤が言った。「昔から七夕の時期になると、この浜は避けるらしい」
「七夕?」
「そう、今日だよ。旧暦の七月七日」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。森本さんが朝言っていたことを思い出す。「御神渡り」が起こるという日だ。
夕方、私たちは先生の提案で夕焼けの海を描くことになった。浜辺に腰を下ろし、水平線に沈みゆく太陽を眺めながらスケッチブックを広げる。
太陽が半分ほど水平線に沈んだ頃、異変が起きた。
海面が突然、鏡のように平らになったのだ。波が完全に消え、水面が赤い夕日に照らされて道のように輝き始めた。
「あれ…」さくらが指を指した。
海の上に、確かに道ができていた。水面が盛り上がっているわけでも、物理的な橋があるわけでもない。ただ、波一つない一直線の道が、私たちの浜から水平線の彼方へと伸びているように見えた。
「御神渡り…」私は呟いた。
その時、水平線の方から何かが近づいてきた。初めは小さな点だったが、だんだんと人の形に見えてきた。
「あれ、誰かが歩いてる…」大井が声をひそめた。
確かに、海の上の「道」を歩く人影。いや、一人ではない。数十人、いや百人以上の影が、列をなして私たちの浜へと近づいてきた。
「先生…」私は振り返ったが、野口先生の姿はなかった。いつの間にか私たち生徒だけになっていた。
恐怖で足がすくみ、私たちはただ呆然と海を見つめていた。人影はどんどん近づいてくる。やがて、その顔が見えるほどの距離になった。
青白い顔。虚ろな目。水に濡れた着物。
「海で亡くなった人たち…」さくらが震える声で言った。
そのとき、浜辺から叫び声が聞こえた。振り返ると、野口先生と森本さんが必死に手を振っていた。
「逃げて!今すぐここから離れて!」
私たちは我に返り、砂浜を駆け上がった。振り返ると、海の上を歩いてきた「何か」が、ちょうど浜辺に到達しようとしていた。
宿に戻ると、森本さんが慌ただしく部屋の戸締りをし始めた。
「塩と米を窓際に置いて」と野口先生が言う。「あと、庭に出ては絶対にダメだ」
私たちは言われるがままに従った。震える手で、窓辺に塩と米を置く。何が起きているのか理解できなかった。
「説明してください」松本が先生に詰め寄った。「あれは何だったんですか?」
野口先生は深いため息をついた。「御神渡りは、この村の秘密なんだ。毎年旧暦の七月七日、海の神様が陸に道を作る。そして…海で亡くなった人たちが一晩だけ戻ってくる」
「幽霊ってこと?」齋藤が青ざめた顔で聞いた。
「単なる幽霊じゃない」森本さんが答えた。「海の神に連れていかれた人たち。溺死したわけじゃない人もいる。海に引きずり込まれた人たち…」
「何を言ってるんですか?」さくらが混乱した様子で尋ねた。
「十年前、この浜で五人の高校生が消えたんだ」野口先生が静かに言った。「美術部の夏合宿で来ていた生徒たちだ」
私の心臓が止まりそうになった。
「彼らは夕暮れに浜辺でスケッチをしていた。そして御神渡りが始まった。地元の人間なら絶対に近づかないのに、彼らは知らなかった…」先生の声が震えた。「次の日、彼らの持ち物だけが浜に残されていた。五人は永遠に戻ってこなかった」
「じゃあ、なぜ私たちをここに?」大井が怒りを含んだ声で聞いた。
「守るため」森本さんが答えた。「十年に一度、強い御神渡りがある。今夜がそれだ。海の神は新たな供物を求めている。もし誰も浜にいなければ…村の誰かが連れていかれる」
「私たちを身代わりにする気だったんですか?」松本が叫んだ。
「違う!」野口先生が声を上げた。「あなたたちを守るために連れてきたんだ。あの時…十年前、私はこの生徒たちの顧問だった。でも彼らを守れなかった…」
私たちは言葉を失った。
「御神渡りが見えるのは、海の神に選ばれた者だけ」森本さんが続けた。「見えてしまった者は、必ず海に引きずり込まれる。だからこそ、今夜は決して外に出てはいけない」
その夜、私たちは一睡もできなかった。窓の外からは波の音とは思えない、靴音のような音が聞こえてきた。時折、窓ガラスをこする音。呼びかける声。
「琴音…」
私の名前を呼ぶ声に、思わず窓に近づきそうになった。さくらが私の腕を強く掴んだ。
「ダメ!絶対に反応しちゃダメ!」
夜明け前、ついに音は消えた。静寂が訪れ、やがて東の空が白み始めた。
朝になって、私たちは恐る恐る外に出た。浜辺には何もなかった。ただ、砂の上に無数の足跡が残されていた。宿の周りを何度も何度も回ったような足跡。そして不思議なことに、海に向かって一直線に伸びる私たちの足跡。
「でも、私たち昨夜は外に出ていない…」と私は呟いた。
野口先生は青ざめた顔で砂の上の足跡を見つめていた。「これは…十年前と同じだ」
その日、私たちは急いで鰐浦を後にした。バスの中で、さくらが私に小声で言った。
「昨夜、あなたは眠っていた間に歩き回っていたわ。私が止めなかったら…」
私は震える手で携帯電話を取り出した。写真フォルダには、昨夜撮ったはずのない一枚の写真があった。赤く染まった海面に浮かぶ道。そしてその上を歩く無数の人影。
あれから三年が経った今でも、私は海に近づくことができない。特に夕暮れ時の海は…。そして毎年七月七日の夜になると、どこにいても波の音が聞こえ、誰かが私の名前を呼ぶ声がする。
もうすぐ今年の七月七日がやってくる。今年も私は逃げ切れるだろうか…。
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2007年8月、静岡県の某漁村で実際に起きた出来事です。地元の小さな海水浴場で、訪れていた5人の高校生が忽然と姿を消しました。彼らの持ち物は浜辺に整然と置かれたまま残されており、水難事故と判断されましたが、遺体は一人も見つかりませんでした。
地元では古くから「七月七日の夕暮れには海に近づくな」という言い伝えがある。