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怖い話  作者: 健二
☆★
28/66

石の唄――豊浜トンネル崩落跡取材記


 夜の積丹半島は、海と空の境がない。海鳴りに追われるように国道を走り、旧道入口で車を降りた瞬間、濡れた潮風に頬を叩かれた。

 ヘッドライトの輪の中、コンクリートで塞がれた半月形の壁が突き当たりを塞ぐ。それが、二十八年前に岩盤が崩れ落ち、観光バスごと二十名を呑み込んだ豊浜トンネル旧坑口だ。


 私は地方局のドキュメンタリー班で「封鎖された惨事の現場を歩く」という連載を担当している。正式な許可は下りなかったが、地元漁師に頼み込み、かつて点検用に掘られた側道の鍵を一晩だけ借りた。倒壊で潰れた本坑へ直接通じる“裏口”だ。


 午後十一時二十四分、錆びた鉄扉を押すと、ひんやりとした風が内側から吹いた。海霧ではなく、古い石の湿り気の匂い。小型ライトを掲げ歩を進めると、側道は幅一メートルに満たず、壁面の一部が剥がれて小石が転がる。足音が遅れて帰って来るたび、耳が異様に熱くなった。


 五十メートルほどで行き止まり。そこに、人ひとりがくぐれるほどの割れ目が走り、奥へ暗闇が続いている。私は這うように身を差し入れ、腰のICレコーダを作動させた。石英片が膝を噛む。直後、機械のスイッチが勝手にカチリと跳ね上がった――“録音”が“再生”へ切り替わる。まだ何も録っていないはずなのに、ヘッドフォンからざらついた雑音と女性の低い呟きが漏れた。


 〈──シートベルト、外れない〉

 声は唐突に途切れ、つづいて金属が軋む甲高い悲鳴が響く。私は思わず停止ボタンを押し、レコーダを確認した。液晶には00:00:00。記録は一切残されていない。


 先へ進むと、やがて空洞が広がった。崩落で押し潰されたバスの残骸はすべて撤去されたと資料にあるが、ライトの先に曲がった鉄パイプが突き出ている。近づくと、それはバスの手すりではなく、支保工しほこうと呼ばれるトンネルの骨格だった。

 支保工に触れた瞬間、「キン……」と鈴のような音が響いた。振動が岩肌に伝わり、頭上の闇がわずかに揺れた。次の瞬間、どこからかバスのアイドリングのような低周波が重なった。乗客のざわめき、運転手のマイクテスト、窓に叩きつける雪解け水……。二十八年前の冬の朝がスピーカーの向こうに蘇る。


 私は錯覚だと言い聞かせ、空洞の中央へライトを向けた。そこだけ床面が不自然に滑らかで、うっすらと凹んでいる。――バスが押し潰され、アスファルトと鉄骨が一体になった“跡”だろう。

 近寄ると、凹みの中央に掌大の石が載っていた。真新しい裂面が白く、断面がどこか人の横顔に似ている。頬にあたる部分が欠け、切り立った顎が横たわる。私は無意識にカメラを構えたが、シャッターが切れる寸前、石の表面に微かな震動が走った。

 「ゴッ、ゴッ、ゴッ」

 鼓動のように鈍い音が足元から立ち上がり、ライトが震えた。空洞を満たす闇全体が一度、息を呑むように静まり返る。次の瞬間、頭上で砂粒が降り、視界が灰色の霧に覆われた。


 崩れる――そう直感した私は石を落として背を向けた。だが出口へ数歩も進まぬうち、後方で甲高いブザーが鳴った。バスの非常ドアを開けるときの警報音だ。

 振り返ると、照らされていないはずの空間に淡いヘッドライトの光が二つ浮かんでいる。モーターもエンジンもないのに、光だけがこちらへじりじりと滲み寄る。照度は弱いが、間に挟まる靄がシートの生地模様を映し出した。運転席のシルエット。フロントガラスには白く凍った手形が幾つも重なって……いや違う、ガラスは存在しない。光の粒が形を取っただけだ。


 私は背を向け、側道との割れ目へ飛び込んだ。狭隘なトンネルに肺が押し潰される。後ろで「パン」と想像より軽い岩の破裂音がし、圧縮された空気が追って来た。だが崩落は続かなかった。割れ目を抜け出し、側道で膝をつくと、背後は静まり返っている。自分の心拍だけが壁を返り、その音が、消えたはずの異音へ少しずつ重なりはじめた。


 〈シートベルト、外れない〉

 ヘッドフォンなしの耳元で、あの声が繰り返し囁く。私はポケットを探り、レコーダを握り締めた。液晶は点灯していない。けれど指が触れた瞬間、氷のように冷えていた筐体が、人肌ほどの温度に変わった。内部で何かがまだ動いている。

 ふいに、壁の向こう、旧坑側から周期的な音が始まった。

 「コン、コン、コン」

 バスの運転手が非常灯を叩いて乗客を落ち着かせる、あの当時の録音テープに残る音と同じリズムだと、調査報告書で読んだことがある。


 出口の鉄扉に辿り着くと、潮風が一気に肺を洗い、海鳴りが戻った。扉を閉めかけたそのとき、背後の闇がわずかに揺れ、石の転がる気配がした。

 私は振り返らず鍵をかけた。チェーンがカチリと締まると同時に、内側から“誰か”が軽くノックした。

 「コン、コン、コン」――三度。リズムはさっきと同じ。「大丈夫です」と乗客を落ち着かせる運転手の合図だったはずの、その三拍。


 車に戻り、エンジンをかけた。カーラジオが自動で点き、NHK第一の深夜便が流れ始める。だがスピーカーから漏れたのはアナウンスではなく、海底を転がる石のような重い摩擦音だった。ボリュームを絞っても止まらない。ハンドル越しに胸が締めつけられ、視界の端でダッシュボードが震えた。

 怖気を振り払い、国道へ車を出す。トンネル封鎖壁がライトから外れる瞬間、ミラーに小さな光点が映った。二つ、並んで、薄く滲んで。


 十キロ先の町まで下り、24時間営業のガソリンスタンドに飛び込んだ。エンジンを切った瞬間、ラジオの雑音はぷつりと途絶えた。胸ポケットのレコーダを取り出す。液晶には時間が刻まれている――「8:05:13」。崩落が起きた正確な秒単位の発生日時を表示し、再生ボタンの赤LEDが点滅していた。

 私は恐る恐るボタンを押した。耳を塞いでも、車内のスピーカーからでもなく、直接胸に響くような小さな声が、ひとことだけ流れた。


 〈まだ乗っています〉


 それきり、レコーダは沈黙した。スタンドのネオンが雨粒のように窓へ跳ね、遠い波音と混じる。

 振り返れば、封鎖された豊浜旧トンネルは二度と開かない。けれどあの空洞で今も、“運行を終えられないバス”の灯りが何かを待っている。二十八年分の海霧と岩の重みの下、シートベルトを外せないまま、石の唄に足踏みを合わせながら。


【参照した実在の出来事】

 1996年2月10日午前8時5分、北海道古平町・国道229号豊浜トンネルで発生した岩盤崩落事故(死者20名)。

 〈北海道開発局道路情報課「豊浜トンネル岩盤崩落事故調査報告書」〉

 〈NHKアーカイブス「報道特集・豊浜トンネル崩落」〉

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