入り江の誘い
北陸の小さな漁村、波乃浦。観光客が訪れる大きな海水浴場とは違い、地元の人だけが知る入り江がある。「蒼の入り江」と呼ばれるそこは、透明度が高く、波も穏やかで、夏の間だけ開放される秘密の楽園だった。
私、森川蓮は高校二年の夏休み、父の実家があるこの村に一人で帰省していた。東京の喧騒から逃れ、静かな夏を過ごすつもりだった。
「蓮、海に行くなら蒼の入り江は避けとけよ」
到着した日、叔父はビールを飲みながらそう言った。
「どうして?きれいな海って聞いたけど」
「そりゃ確かにきれいだ。でも、毎年夏になると誰かしら溺れる。特に、お前みたいな若い男がターゲットになる」
叔父の言葉に、私は半信半疑だった。地元に伝わる迷信だろうと思い、翌日、好奇心に負けて蒼の入り江へ向かった。
海へ続く細い山道を抜けると、まるで絵ハガキのような光景が広がっていた。紺碧の海、白い砂浜、周囲を囲む岩場。人の姿はまばらで、地元の子供たちが数人遊んでいるだけだった。
「きれいな海だね」
振り返ると、白いワンピースを着た少女が立っていた。長い黒髪が風に揺れ、透き通るような白い肌をしていた。
「ああ、うん」私は思わず言葉に詰まった。どこから現れたのか分からない美しい少女に、心臓が早鐘を打った。
「初めて来たの?」
「東京から来たんだ。親戚の家に滞在してる」
「そう」少女は微笑んだ。「私の名前は奏。あなたは?」
「蓮。森川蓮」
奏と知り合ったその日から、私の日常は一変した。毎日のように入り江で会い、泳いだり、岩場で貝を集めたり、夕焼けを見たりした。奏は地元の人間だと言ったが、学校の話になると曖昧にはぐらかした。
「蓮は泳ぎが上手いね」ある日、奏が言った。
「小さい頃からスイミングスクールに通ってたから」
「もっと沖まで泳げる?あそこの岩まで」
奏が指差した先には、沖合約200メートルに小さな岩があった。
「余裕だよ。一緒に行く?」
奏は首を横に振った。「私はあそこまでは行けない。でも、蓮なら大丈夫」
翌日、私は沖の岩を目指して泳いだ。奏は浜辺で手を振っていた。波は穏やかで、泳ぎやすかった。岩に近づくにつれ、不思議なことに水の色が変わっていった。青から藍、そして紫へ。
岩に到着し、上に登ろうとしたとき、背後で水音がした。振り返ると、奏が水中から顔を出していた。
「え?奏?どうやって…」
「蓮、もっと先に行こう」
彼女の声は不思議な響きを持っていた。目が、いつもと違う色に見えた。
「先って…ここが限界だよ。もう戻ろう」
「ダメ。もっと一緒に来て」
奏の手が水中から伸び、私の足首を掴んだ。冷たい。あまりに冷たい手だった。
恐怖が背筋を走った。全力で岩を掴み、足を振りほどいた。奏の表情が歪み、悲しみと怒りが入り混じったような顔になった。
「どうして?みんなと同じ…」
彼女の言葉を最後まで聞かず、私は必死で浜辺に向かって泳ぎ出した。何度か振り返ったが、奏の姿はなかった。
浜辺に着くと、足が震えて立てなかった。その日は宿に戻り、熱を出して寝込んだ。
翌朝、叔父が心配そうに病室を訪れた。
「昨日、蒼の入り江で?」
「うん…奏という女の子と会って…」
叔父の顔から血の気が引いた。
「奏…?黒髪の、白い肌の子か?」
私が頷くと、叔父は震える手で携帯電話を取り出し、写真を見せた。それは約30年前の白黒写真だった。海辺に立つ若い女性の姿。間違いなく奏だった。
「これは…」
「蒼奏。私の妹だ。30年前、その入り江で溺死した」
叔父の話によれば、蒼奏は水泳が苦手だったが、好きな男性に誘われて沖の岩まで泳いだという。男性は無事だったが、奏は帰りに溺れてしまった。それ以来、毎年夏になると、奏に似た若い男性が入り江で溺死する事故が起きるようになった。
「あの子は恨んでいるんだ。自分を見捨てた男を。だから似た顔の若い男を海に誘う…」
その夜、宿の窓から海が見える部屋で、私は奏の幻を見た。窓の外、雨の中に立つ彼女。白いワンピースはずぶ濡れで、長い黒髪が顔を覆っていた。
「蓮…一緒に来て…」
窓ガラスに水滴が伝う音と重なり、彼女の声が聞こえた。私は震える手でカーテンを引き、その夜は眠れなかった。
翌朝、叔父と一緒に地元の神社を訪れた。海の安全を司る神様に、奏の魂の鎮魂を祈った。お守りをもらい、身につけることで、奏は近づいてこなくなったが、たまに夢に出てくることがある。
あれから三年。私は海洋学を学ぶため大学に進み、時々あの村を訪れる。蒼の入り江は立入禁止になり、柵が設けられた。地元の人々は「海の嫁取り」と呼び、若い男性に注意を促すようになった。
奏が恨みから人を誘うのか、それとも寂しさから伴侶を求めるのか、真相は闇の中だ。ただ、あの紺碧の海の底で、今も彼女が誰かを待っていることだけは確かだと思う。
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2008年8月、石川県の小さな漁村で、不可解な連続溺死事件が報告されました。過去10年間で7人の若い男性が、地元では「青の入江」と呼ばれる入江で溺死しました。
不思議なことに、犠牲者全員が似たような特徴を持っていました。全員が18〜25歳、背が高く痩せ型、短い黒髪という共通点がありました。さらに奇妙なことに、遺体が発見された時、全員の足首に同じような痣があったと報告されています。
地元の古老によれば、この入江には「海の花嫁」という伝説があり、昭和初期に婚約者を海難事故で失った女性の霊が、似た容姿の若い男性を海に誘うと言われています。
最も不可解なのは、2008年の最後の犠牲者が発見された際、監視カメラに写っていた映像です。男性が一人で海に入る様子が映っていましたが、水中から彼の足を掴む白い腕のようなものも確認されました。映像分析の専門家も、この映像の説明ができずにいます。
現在、この入江は立入禁止となっており、地元の神社では毎年8月に「海魂鎮め」の儀式が行われています。それ以来、この入江での溺死事件は報告されていません。