潮騒の囁き
真夏の太陽が照りつける8月中旬、高校2年の佐藤遥は家族とともに三重県の小さな漁村「波切浦」を訪れていた。東京から離れたこの村は、遥の母の故郷だった。母方の祖父が先月他界し、その遺品整理のために来たのだ。
「ここから見える岬が、浦島太郎が亀に乗って竜宮城へ行ったという伝説の場所なんだよ」
父がそう教えてくれたが、遥は都会育ちの自分にとって、この村が不思議なほど違和感があることに気づいていた。村人たちは遥の家族を見るたび、特に遥を見るたび、奇妙な視線を向けてきた。
祖父の家は海岸から歩いて5分ほどの場所にあった。波の音が常に聞こえる古い木造家屋。
「遥、明日は『海神祭』だから、一緒に行きましょう」
母は荷物を片付けながら言った。遥は小さく頷いたが、何となく気が進まなかった。
その夜、風鈴の音に混ざって、遥の耳に微かな歌声が聞こえてきた。女性の声だった。窓を開けると、潮の香りと共に歌声がより鮮明になる。まるで誰かが遥を呼んでいるかのように。
「誰?」
遥は思わず声をかけたが、返事はなく、代わりに村の方から賑やかな太鼓の音が聞こえてきた。前夜祭が始まったのだろう。
就寝前、遥は祖父の遺品が入った箱の中から一冊の古い日記を見つけた。最後のページには、震える文字でこう書かれていた。
「海神様の娘は60年に一度、陸に上がり、村の若者と契りを交わす。しかし彼女を拒絶する者には災いが訪れる。私は60年前、彼女を拒絶した。そして村は大津波に襲われた。今年、また彼女が現れる。次は誰が選ばれるのか…」
その夜、遥は不思議な夢を見た。海の中で、長い黒髪の女性が自分に手を差し伸べている。女性の下半身は魚のようだった。
翌朝、「海神祭」の日。浜辺では村人たちが集まり、海に向かって大きな祭壇を設置していた。魚や貝、海藻などの供物が並べられ、神主が祝詞を上げる。
「昔から海の恵みに感謝する祭りなんだよ」
母はそう説明したが、村人たちの緊張した表情は単なる感謝の儀式には見えなかった。
昼過ぎ、遥は一人で浜辺を散歩していた。潮が引いた岩場で、遥は光るものを見つけた。拾い上げると、それは真珠のような輝きを持つ丸い石だった。
「それは返してもらえるかしら」
突然の声に振り返ると、そこには見たこともないほど美しい少女が立っていた。長い黒髪が風に揺れ、白い肌は真珠のように輝いていた。遥は思わず息を呑んだ。
「これ、あなたの?」
遥が石を差し出すと、少女は微笑んだ。その笑顔に、遥は胸が高鳴るのを感じた。
「私の名前は玉依。あなたは?」
「佐藤遥。東京から来たんだ」
玉依との会話は不思議なほど弾んだ。彼女は海のことをよく知っていて、この村の歴史や伝説を詳しく語った。
「この村は昔、大津波で多くの命が失われたの。私の先祖も…」
玉依の言葉に、遥は昨夜読んだ祖父の日記を思い出した。
「今夜、浜辺に来てくれる?満月の夜、海がとても美しいの」
別れ際、玉依はそう言って去っていった。遥は心の中で約束をした。
夕食時、母が突然、遥に尋ねた。
「今日、誰かと会った?」
遥が玉依のことを話すと、母の顔から血の気が引いた。
「その子には近づかないで!」
母の強い口調に、遥は驚いた。
「どうして?彼女、何か悪いことしたの?」
母は黙って立ち上がり、押し入れから古いアルバムを取り出した。そこには若い頃の祖父と、玉依にそっくりな少女の写真があった。日付は60年前。
「この子は…村の伝説によれば、海神の娘。60年に一度、人間の姿で現れ、気に入った若者を海の世界へ連れていくと言われている」
母の話によれば、60年前、祖父はこの少女から求愛されたが拒絶した。その直後、村は大津波に襲われたという。
「祖父は自分の選択が災いを招いたと一生後悔していた。だからあなたには…」
母の話を最後まで聞かず、遥は部屋を飛び出した。海へ向かって走る。頭の中は混乱していたが、玉依に会いたいという気持ちだけは確かだった。
浜辺に着くと、満月の光が海面を銀色に染めていた。沖の方から、また例の歌声が聞こえてくる。
「玉依!」
遥が叫ぶと、波間から彼女が姿を現した。月明かりの下、彼女の姿は幻想的だった。
「来てくれたのね、遥」
玉依の声は波の音と溶け合って、不思議な響きを持っていた。
「あなたが海神の娘だって本当?」
遥の問いに、玉依はゆっくりと頷いた。
「私は60年に一度、人間の姿になれる。そして運命の人を見つけたら、海の世界へ誘う。60年前、あなたの祖父は私の母を拒絶した。だから…」
「だから津波が来たの?」
「違う。私たちは災いをもたらすわけじゃない。ただ…拒絶されると悲しみで海が荒れることがあるの」
玉依は遥に手を差し伸べた。
「一緒に来て。海の世界は美しいわ。あなたは特別な存在。海の血が流れているから」
その瞬間、遥は母の言葉を思い出した。母の母、つまり遥の祖母は幼い頃に行方不明になり、数年後に記憶を失った状態で浜辺に打ち上げられたという。
「私の祖母は…」
「そう、私の姉妹。だからあなたには海の血が流れているの」
遥は震える手で玉依の手を取った。冷たいが、不思議と心地よい感触。そして玉依は遥を海へと導いた。
波間に足を踏み入れた瞬間、遥の足元が変化していくのを感じた。痛みはなかった。むしろ、これまで感じたことのない解放感。
「遥!」
浜辺から母の悲痛な叫び声が聞こえた。遥は振り返り、手を振った。
「大丈夫。戻ってくるから」
そう言って、遥は玉依と共に海の中へと消えていった。
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2007年8月、三重県の小さな漁村で不思議な出来事が報告されました。
夏季限定の海の家でアルバイトをしていた高校生の少年が、8月15日の満月の夜に突然姿を消しました。目撃者によれば、少年は浜辺で見知らぬ少女と話した後、二人で海に入っていったとのこと。
翌朝、大規模な捜索が行われましたが、少年の姿は見つかりませんでした。しかし、3日後、少年は何事もなかったかのように浜辺に現れたのです。少年は「海の世界に行っていた」と主張し、「そこは時間の流れが違う」と説明しました。
さらに奇妙なことに、少年の足には鱗のような模様が現れ、体内から海水成分が検出されました。医師たちはこの現象を説明できず、「塩分過多による皮膚異常」と診断しましたが、地元の古老たちは「海神の選びし者」として少年を崇めるようになりました。
少年はその後、海洋生物学者となり、現在も研究を続けています。彼の研究室には、誰も見たことがない海洋生物の標本が並んでいるといいます。また、満月の夜になると、彼は一人で海に出かけ、夜明けまで戻ってこないことがあるそうです。
この事件は公式には「一時的な記憶喪失を伴う行方不明事件」として処理されましたが、この村では今も「海神の娘」の伝説として語り継がれています。