潮騒の呼び声
真夏の太陽が照りつける7月末、高校2年の僕は友人5人と共に、東北地方の小さな漁村「鵜ノ浦」を訪れていた。東京から離れた、観光客も少ないこの浜辺は、友人の親戚が教えてくれた穴場スポットだった。
「マジで誰もいねぇな」幼馴染の健太が、目の前に広がる青い海を見渡しながら言った。確かに、この広い砂浜に人影はなく、ただ波の音だけが響いていた。
「だから言ったじゃん、ここ超穴場なんだって」
僕たちは浜辺に荷物を置き、さっそく海に飛び込んだ。潮の香りと潮騒、そして冷たい海水の感触が、都会の喧騒から解放された開放感をもたらした。
午後3時頃、波打ち際で休憩していると、一人の老漁師が僕たちに声をかけてきた。
「若いの、海で遊ぶのはええが、日が暮れる前には上がっとけよ」
「えっ、なんでですか?」友人の美咲が尋ねた。
老漁師は少し躊躇してから、「この浜は、日が沈むと海の神様が現れるって言い伝えがあるんだ。特に今日は旧暦の六月二十七日、海神様が人間を迎えに来る日だと言われとる」
僕たちは顔を見合わせた。おどろおどろしい言い伝えなど、どこの観光地にもあるものだ。それは地元民が観光客に話して聞かせる、ちょっとした肝試しのようなものだろう。
「大丈夫ですよ、僕たち肝は据わってますから」と健太が笑いながら答えた。
老漁師は深いしわの刻まれた顔を曇らせ、「冗談じゃないんだ。五年前、ちょうど今日と同じ日に、都会から来た若者二人が夜の海で溺れた。遺体は見つからなかった」と言い残して立ち去った。
「なんか怖いな…」美咲が不安そうに言った。
「そんな迷信、気にするなって」健太は肩をすくめた。
その後も僕たちは海で遊び続けた。しかし、老漁師の言葉が頭から離れず、何度か沖の方を見つめては不安になった。不思議なことに、他の浜辺では見られるはずの観光客や地元の人が一人も見当たらない。
夕方5時頃、空が茜色に染まり始めた頃、僕たちは帰る準備を始めた。ふと、沖の方に目をやると、波間に何かが浮かんでいるのが見えた。
「あれ、人?」健太が指さした。
確かに人のようだが、不自然に静止している。しかも、海水浴客のような姿ではなく、何か古い衣装を身にまとっているようだった。
「もしかして溺れてるんじゃ…」と言いかけた僕の言葉を遮るように、その人影が僕たちを見た。
50メートルほど離れていたにもかかわらず、その顔がはっきりと見えた。青白い顔に、魚のような大きな目、そして口元から流れ落ちる海水。それは明らかに人ではなかった。
「な、なに…あれ」
恐怖で体が硬直する中、その存在は僕たちに向かって手を伸ばした。同時に、周囲の空気が一気に冷え込み、海面から白い霧が立ち昇り始めた。
「逃げろ!」健太の叫びで我に返り、僕たちは荷物を掴んで浜辺から駆け出した。
宿に戻った僕たちは、恐怖で震えながら今日見たものについて話し合った。そこへ、宿の女将が夕食を運んできた。
「もしかして、浜辺で何か見ましたか?」女将は僕たちの様子を見て尋ねた。
恐る恐る僕たちが見たものを話すと、女将は深刻な表情でうなずいた。
「やっぱり…今日は海神様が現れる日です。昔から、旧暦の六月二十七日は『海神の婿選びの日』と言われています。海神は美しい若者を海の底に連れていくと…」
「冗談でしょ?」美咲が震える声で尋ねた。
「五年前、東京から来た大学生の兄弟が、日が暮れてからこの浜で泳いで行方不明になりました。村の漁師たちは言っています。あの二人は海神に選ばれたのだと」
夕食後、部屋に戻った僕たちは窓から見える暗い海を恐る恐る見つめていた。月明かりが海面を照らす中、波間に人影のようなものが見え隠れしているような気がした。
「ねえ、聞こえる?」と美咲が言った。「誰かが名前を呼んでる気がする…」
確かに、波の音の中に、かすかに人の声のようなものが混ざっていた。それは遠くから誰かが名前を呼ぶような、切ないメロディーを帯びていた。
その夜、僕は奇妙な夢を見た。海の底で、青白い顔の存在が僕に手を伸ばし、「一人だけでいい、一人だけ連れていく」と囁いていた。
翌朝、目が覚めると、健太の布団が空っぽだった。
「健太、どこ行ったんだろう?」
宿中を探し回ったが、健太の姿はどこにもなかった。宿の外に出ると、浜辺に向かう足跡が残っていた。それは砂浜まで続き、そして海へと消えていた。
浜辺には健太のTシャツだけが打ち上げられていた。それは濡れていたが、海水の塩分ではなく、どこか異質な匂いがした。
警察が捜索に出たが、健太の姿は見つからなかった。地元の漁師たちは、「海神に選ばれた者は二度と戻らない」と口々に言った。
あれから十年が経った。僕は海洋民俗学を専攻する大学院生となり、あの日の出来事の真相を探るため、再び鵜ノ浦を訪れていた。
村の古文書には、江戸時代から続く「海神の婿選び」の記録が残されていた。旧暦六月二十七日に若者が失踪する事件は、実に200年以上も繰り返されていたのだ。
そして今日も、旧暦の六月二十七日。日が暮れる頃、浜辺に立つと、波間から聞こえる懐かしい声に気づいた。
「おい、そろそろ来ないか」
それは健太の声だった。
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2008年7月29日、宮城県の小さな漁村で起きた出来事は、今も地元の人々の間で語り継がれています。東京から海水浴に来ていた大学生2名が夜の海で行方不明になり、その後も遺体は発見されませんでした。
事件から3日後、漁師の網に大量の人間の髪の毛が絡まっているのが発見されました。DNA鑑定の結果、それは行方不明になった学生のものと確認されましたが、他の遺留品や遺体は一切見つかりませんでした。
さらに奇妙なことに、事件発生から毎年同じ日に、この浜辺では潮が引いた後の砂浜に、内陸に向かって引きずられたような跡が見つかるようになりました。地元の警察は動物の仕業と説明していますが、その跡は明らかに人間のものに見え、しかも一晩で消えてしまうのです。
海洋研究者によれば、この海域には特殊な潮流があり、一度沖に流されると遺体が岸に戻ってこないことがあるとのことです。しかし地元の古老たちは、旧暦の六月二十七日に海で遊ぶことを今も若者たちに固く禁じています。