墓標の呼び声
夏休み最後の週末、私は母方の祖母が住む岩手県の山あいの村を訪れていた。東京での受験勉強に疲れた私に、母は「空気の良いところで気分転換してきなさい」と勧めたのだ。
祖母の家は築100年を超える古民家で、村はずれの小高い丘に建っていた。その裏手には、杉の木に囲まれた小さな墓地があった。
「千尋ちゃん、明日は地蔵盆だから、一緒に墓掃除をしてくれるかい?」
到着した日の夕食時、祖母がそう言った。地蔵盆とは、子どもの霊を慰めるための夏の行事だ。
「もちろん、手伝うよ」
私は快く引き受けた。村での暮らしは久しぶりで、懐かしさを感じていた。
その夜、窓を開けて涼んでいると、墓地の方から微かな音が聞こえてきた。カラン、カラン、と鈴を鳴らすような音だ。
「おばあちゃん、あの音は何?」
居間で縫い物をしていた祖母に尋ねると、彼女は手を止めた。
「どんな音?」
「鈴の音みたいな」
祖母の表情が一瞬こわばった。
「気のせいでしょう。さあ、早く寝なさい」
祖母の様子に違和感を覚えながらも、私は床に就いた。しかし、眠りに落ちる直前、また同じ音が聞こえた気がした。
翌朝、私たちは墓掃除に出かけた。村の墓地は十数基の墓石が整然と並ぶ小さなものだった。中でも目を引いたのは、一番奥にある古びた墓石。他の墓と離れて建っていて、苔むしていた。
「あれは誰のお墓?」
私が尋ねると、祖母は視線を逸らした。
「気にしなくていいよ。さあ、こっちを掃除しましょう」
不思議に思いつつも、私は祖母の言うとおりにした。
掃除を終え、祖母が線香をあげている間、私はこっそりとその古い墓石に近づいた。苔を少しこすり落とすと、「鐘村家先祖代々之墓」という文字が浮かび上がった。そして墓石の前には、小さな鈴が置かれていた。
「昨夜の音は…」
その時、祖母が厳しい声で呼んだ。
「千尋!そこに近づいてはいけないと言ったでしょう」
祖母の怒った顔を見たのは初めてだった。
帰り道、私は勇気を出して尋ねた。
「鐘村家って誰?」
長い沈黙の後、祖母はため息をついた。
「話したくなかったけど…。鐘村家は昔、この村にあった家よ。でも五十年前、一家全員が不慮の事故で亡くなった。特に可哀想だったのは、私と同い年だった娘のリンちゃん。まだ十六歳だったのに」
祖母の話によれば、鐘村家は村で唯一の鋳物師の家系で、代々鈴や鐘を作っていた。しかし、ある夏の夜、工房から出火し、家族全員が焼死したという。
「それ以来、お盆の時期になると、あの墓から鈴の音が聞こえるという噂があるの。でも迷信よ」
祖母は話を終えると、それ以上は口を開こうとしなかった。
その日の夕方、地蔵盆の準備が始まった。村の広場に地蔵様が安置され、子どもたちが集まってきた。私も手伝いながら、昼間聞いた話が頭から離れなかった。
夜になり、地蔵盆が始まった。灯籠の灯りの中、村人たちが集まり、住職のお経に合わせて念仏を唱える。しめやかで厳かな雰囲気だった。
儀式の最中、ふと私は墓地の方を見た。薄暗い中、一つの光が見える。まるで誰かが提灯を持って歩いているようだ。
「あれは…」
誰にも気づかれないように、私はこっそりと広場を離れ、墓地へと向かった。光は鐘村家の墓の前で止まっていた。近づくと、白い着物を着た少女が墓石の前に立っているのが見えた。
私の足音に気づいたのか、少女がゆっくりと振り返った。月明かりに照らされた顔は、私と同じくらいの年頃の少女のものだった。しかし、その肌は青白く、目は深い悲しみに満ちていた。
「あなたは…リンさん?」
私の問いかけに、少女はわずかに頷いた。
「私の声が聞こえるの?」少女の声は風のようにかすかだった。
恐怖よりも好奇心が勝った私は、一歩近づいた。
「うん、聞こえるよ。あなたが鈴を鳴らしていたの?」
少女は小さく頷き、手に持っていた小さな鈴を見せた。
「毎年、この日に帰ってくるの。家族に会いに」
「家族も…ここにいるの?」
「ううん、もう皆、生まれ変わった。私だけが残されたの」
少女の表情は悲しげだった。
「どうして?」
「私には、果たせなかった約束があるから」
リンは静かに語り始めた。彼女が亡くなった日、村の夏祭りがあった。幼なじみの少年と、祭りの後に墓地で会う約束をしていたという。しかし、火事で命を落とし、約束を果たせなかった。
「それからずっと、毎年この日に戻ってきて、彼を待っているの。でも、もう誰も来ない…」
リンの話を聞いていると、なぜか胸が締め付けられるような感覚があった。まるで彼女の悲しみが、直接私の心に響いてくるようだった。
「その人の名前は?」
「佐々木隆」
その名前を聞いた瞬間、私は息を飲んだ。佐々木隆—それは私の祖父の名前だった。祖父は三年前に亡くなっていた。
「リンさん…もしかして、私の祖父?」
リンの目が大きく見開かれた。
「あなたは、隆の…?」
私は頷いた。そして突然、全てが繋がった。祖母がこの墓に近づくことを禁じた理由。祖母の不自然な態度。
「待っていてくれたんだね、ずっと」
リンの目から、光の粒のような涙が流れた。
「隆は…幸せだった?」
「うん、おばあちゃんと結婚して、子どもも孫も得て、幸せな人生だったよ」
リンは穏やかな表情になり、鈴を私に差し出した。
「これを、隆の墓に置いてくれる?そうすれば、私も安らかに眠れるの」
震える手で鈴を受け取った私は、約束した。
翌朝、私は祖母に昨夜のことを話した。最初は信じられない様子だったが、私が鈴を見せると、祖母は涙を流した。
「リンちゃんが…まだ待っていたなんて」
祖母の話では、祖父は生前、若い頃の約束を果たせなかったことをずっと気にしていたという。火事の日、祖父は村の外に出ていて助かったが、リンとの約束を忘れてはいなかった。
「でも、あの子の墓に行くのは辛かったのでしょうね。だから、あなたの祖父は一度もあの墓を訪れなかった」
その日、私たちは一緒に祖父の墓を訪れ、リンの鈴を供えた。
「安らかに眠ってね、リンさん」
私が祈りを捧げていると、どこからともなく優しい鈴の音が聞こえた気がした。
その夏の終わり、村を離れる日、私は最後に鐘村家の墓を訪れた。不思議なことに、墓石の苔は消え、綺麗になっていた。そして前日まであった鈴は、跡形もなく消えていた。
東京に戻った私は、祖父の遺品を調べてみた。すると古いアルバムの中から、一枚の写真が見つかった。祭りの浴衣姿の少女と若い祖父が写っている。その裏には「リンと、夏祭りにて」と書かれていた。
写真の少女は、あの夜に見た少女と同じ顔をしていた。
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2015年8月、岩手県の人口わずか300人ほどの山村で行われた地蔵盆の際、地元の高校生が不思議な体験をしたという記録が残っています。
彼女は東京から夏休みに訪れ、村の古い墓地で白い着物を着た少女の霊と遭遇したと証言しています。この霊は1962年に起きた火災で亡くなった少女のものだと考えられています。高校生は霊から小さな鈴を受け取り、それを自分の祖父の墓に供えたと語っています。
この出来事の不思議な点は、高校生が霊から聞いた話の詳細が、当時の村の記録と一致していたことです。彼女は事前にその火災や犠牲者について知識を持っていなかったにもかかわらず、犠牲者の名前や状況を正確に語りました。
さらに驚くべきことに、彼女が祖父の遺品から見つけたという古い写真は、実際に村の資料館に保存されていた祭りの記録写真と一致していたのです。写真に写る少女は確かに火災の犠牲者でした。
その年以降、毎年地蔵盆の時期に聞こえていたという鈴の音は完全に止み、鐘村家の墓は突如として美しく清められた状態で発見されました。地元の年配者は「五十年続いた魂の彷徨が、ようやく終わったのだろう」と語っています。
この不思議な体験は、地元の民俗学者によって「約束と供養の重要性」を示す事例として記録され、現在も研究が続けられています。