蝉時雨の囁き
夏の終わりを告げる蝉の声が、異様なほど響き渡っていた。
高校二年の夏休み、僕は祖母の看病のため、福島県の山あいにある小さな集落「鳴滝」に一人でやって来ていた。
「ミーンミーン」
集落に着いた瞬間から、僕の耳に届く蝉の声は、都会で聞くそれとは明らかに違っていた。一匹一匹の声が区別できるほど鮮明で、まるで何かを訴えかけているようだった。
「つかさ君、よく来てくれたね」
病床の祖母は、僕の顔を見るなり涙ぐんだ。
「お母さんから聞いたよ。祖母ちゃんが倒れたって」
「大したことないよ。でも、ちょうど良かった。今年の『蝉送り』を手伝ってもらえるから」
祖母の言葉に首を傾げる僕。「蝉送り?」
「ああ、この村の伝統行事さ。毎年8月末に、夏の終わりと共に蝉の魂を送る儀式なんだよ」
祖母によれば、鳴滝には古くから「蝉は人の魂が宿る生き物」という言い伝えがあり、夏の終わりに蝉の声が止む前、最後の大合唱が聞こえる日に特別な儀式を行うのだという。
「昔から、この村では異様に蝉の声が大きいんだ。それには理由があってね…」
祖母は昔話を始めた。百年以上前、この村で大きな火事があり、多くの村人が亡くなった。その後、毎年夏になると異常なほど蝉が増え、村人たちは「亡くなった人々の魂が蝉となって戻ってきた」と考えるようになったという。
「だから村では、その魂を鎮めるために『蝉送り』を始めたんだ」
僕は半信半疑だったが、確かに村中に響く蝉の声は、どこか人間の泣き声にも似ていると感じた。
その夜、僕は祖母の家の縁側で涼んでいた。辺りは真っ暗で、月明かりだけが庭を照らしている。
「ミーン…ミーン…」
日が落ちても、蝉の声は弱まることなく続いていた。普通、蝉は夜になると鳴きやむはずだ。
「おかしいな…」
耳をすませば、その声は単なる虫の鳴き声とは思えなかった。微かに言葉のような響きが混ざっている。
「た…す…け…て…」
背筋が凍りついた。まるで誰かが助けを求める声が、蝉の鳴き声に紛れているように聞こえる。
その時、庭の桜の木に異変が起きた。無数の蝉が木の幹に集まり始め、一つの塊を形成していく。その塊は次第に人の形に近づいていった。
「な、何だ…!?」
恐怖で声も出ない。蝉の集合体は、今や明らかに人の姿をしていた。長い髪を垂らした女性のようにも見える。
「たすけて…わたしたちを…」
集合体から発せられる声は、もはや蝉の鳴き声ではなく、かすれた女性の声だった。
僕は思わず家の中へと逃げ込んだ。震える手で部屋の明かりをつけると、窓の外の異様な光景は消えていた。
翌朝、昨夜のことを祖母に話すと、彼女は真剣な表情になった。
「来るのが早かったんだね…『蝉の使い』が」
祖母の説明によれば、蝉送りの前には必ず「蝉の使い」が現れ、儀式の準備を促すのだという。
「今日から準備を始めよう。明日が蝉送りの日だ」
祖母の指示で、僕は村の年配者たちと共に準備を手伝った。藁で作った小さな船、「精霊船」に蝉の抜け殻を集めて載せる作業。各家庭から集められた抜け殻は、驚くほどの量だった。
「この抜け殻一つ一つに、魂が宿っていると考えるんだよ」
村の長老が教えてくれた。
準備を終えて帰宅すると、祖母が小さな箱を持って待っていた。
「つかさ君、これを見て」
箱の中には、古ぼけた写真。火事の前に撮影されたという村の集合写真だった。そこには大勢の村人が写っている。
「よく見てごらん」
祖母が指さした写真の隅に、僕は息を飲んだ。そこには昨夜見た、蝉の集合体が形作っていた女性とそっくりな人物が写っていた。
「彼女は火事で最初に亡くなった村長の娘さん。彼女が『蝉の使い』として現れるんだよ」
その夜、僕は眠れなかった。窓の外からは絶え間ない蝉の声。時折、人の声のような音が混じる。
夜中、ふと目が覚めると、部屋の隅に蝉が一匹止まっていた。普通の蝉より大きく、その目は人間のように僕を見つめているように感じられた。
「たすけて…」
蝉の口から、かすかに言葉が聞こえた気がした。
恐怖で声も出せない僕の前で、蝉はゆっくりと飛び立ち、開いていた窓から外へ飛んでいった。窓の外には、無数の蝉が飛び交い、まるで誰かを待っているかのようだった。
翌日、蝉送りの日。村人たちは夕暮れ時に集落の中心にある小さな池に集まった。その日は不思議なことに、蝉の声が一斉に大きくなり、まるでオーケストラのように調和していた。
祖母は体調が良くないにも関わらず、車椅子で参加していた。
「これが最後の儀式になるかもしれないからね」
そう言う祖母の表情は、どこか寂しげだった。
村の長老が祝詞を唱え、次々と精霊船に火が灯された。燃える船は池に浮かべられ、ゆっくりと中央へと進んでいく。
「魂よ、安らかに還れ」
長老の言葉と共に、村人たちは頭を下げた。
その瞬間、驚くべきことが起きた。池の周りの木々から一斉に蝉が飛び立ち、精霊船の上に集まり始めた。それは昨夜見た光景の再現だった。蝉は人の形を形作り、そこから光が放たれた。
「あれが…蝉の使い」
祖母が震える声で言った。
光の中から現れたのは、写真で見た村長の娘そのままの姿。彼女は微笑み、村人たちに向かって深々と頭を下げた。
「ありがとう…みなさん…」
女性の声は村全体に響き渡った。
「長い間、私たちの声を聞いてくれて、送り出してくれて。これで、私たちは安らかに眠れます」
女性の姿は次第に輝きを増し、その光は精霊船から空へと伸びていった。そして、蝉の大合唱が一瞬にして止み、辺りは静寂に包まれた。
儀式の後、僕は祖母に尋ねた。
「あれは、本当に…?」
祖母は穏やかに微笑んだ。
「蝉は特別な生き物さ。地中で長い間過ごし、短い命を地上で全力で生きる。それはまるで、人間の魂の象徴のようなものだね」
その夜、集落は不思議な静けさに包まれていた。蝉の声は完全に止み、代わりに心地よい風だけが吹いていた。
次の朝、僕は祖母の様子を見に行った。しかし、祖母はベッドで静かに息を引き取っていた。顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
祖母の葬儀の日、不思議なことに一匹の大きな蝉が祭壇に止まり、葬儀が終わるまでずっとそこにいた。そして、祖母の遺影に向かって羽を震わせると、どこかへ飛んでいった。
それから数年が過ぎた今でも、毎年8月になると僕は鳴滝村を訪れ、蝉送りの儀式に参加している。そして時々、蝉の鳴き声の中に、祖母の優しい声が混ざっているような気がするのだ。
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2017年8月、福島県の山間部にある人口わずか120人の小さな集落で、地元の高校生が撮影した動画が、民俗学者たちの間で大きな話題となりました。
この動画には、集落の伝統行事「虫送り」の最中、池の上空に集まった数千匹の蝉が、明らかに人の形を形作る様子が捉えられていました。専門家による分析では、このような蝉の大規模な集合行動は科学的に説明がつかないとされています。
さらに驚くべきことに、動画の音声部分を特殊なフィルターで分析したところ、蝉の鳴き声に混じって人間の声に近い周波数の音が検出されました。言語学者がこの音声パターンを解析したところ、日本語の「ありがとう」と「さようなら」に酷似した音響構造を持っていたといいます。
この集落では江戸時代末期に大規模な火災があり、多くの犠牲者が出たという記録が残っています。地元の言い伝えでは、犠牲者の魂が蝉となって毎年戻ってくると信じられており、200年以上にわたって「虫送り」の儀式が続けられてきました。
奇妙なことに、この動画が撮影された翌日から、集落では例年より早く蝉の声が完全に止み、その年を最後に「虫送り」の儀式は途絶えたといいます。動画を撮影した高校生の祖母は、儀式の翌朝、安らかな表情で息を引き取りました。
科学では説明できないこの現象は、今も民俗学者や超心理学研究者によって調査が続けられています。