祖霊の輪
真夏の夕暮れ、セミの鳴き声が次第に弱まる中、私は祖父の実家がある山形県の小さな集落「鎮守野」に降り立った。東京から特急で4時間、さらにローカル線を乗り継いで辿り着いたこの村は、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれていた。
「あら、千夏ちゃん。よく来たねえ」
駅前で待っていた大叔母の笑顔に、長旅の疲れが少し和らいだ。私の母は先月急な病で他界し、残された私と父は深い悲しみの中にいた。そんな時、「鎮守野の盆踊りの時期に来ないか」という大叔母からの誘いを、父は「気分転換になる」と受け入れてくれたのだ。
「明日から盆踊りが始まるのよ。この村の盆踊りは特別なんだから」
大叔母の家は築百年を超える古民家で、広い庭には井戸があり、縁側からは田んぼの向こうに広がる山々が見えた。
夕食を終え、縁側で涼んでいると、大叔母が古ぼけた木箱を持ってきた。
「千夏ちゃんのお母さん、真由美の形見よ」
箱の中には、白地に青い紋様が入った浴衣と、赤い帯、そして古い櫛が入っていた。
「お母さんが?でも、お母さんはこの村を出てからほとんど戻ってこなかったはずです」
「そうなのよ。でも不思議なことに、真由美は毎年、盆の時期だけは必ず帰ってきたの。この浴衣を着て盆踊りに参加してね」
母の知らない一面を知り、私は少し戸惑った。東京で洗練された生活を送っていた母が、こんな山奥の村の盆踊りに毎年参加していたなんて想像もできなかった。
その夜、私は母の浴衣を手に取りながら、窓の外に広がる満天の星空を見上げていた。するとふいに、遠くから鈴の音が聞こえてきた。かすかだが、確かに誰かが鈴を鳴らしている。
「誰かしら…」
窓から身を乗り出すと、月明かりに照らされた田んぼの畦道を、一人の女性が歩いているのが見えた。白い浴衣姿のその人は、振り返ることなく山の方へと歩いていく。
翌朝、大叔母に昨夜のことを話すと、彼女は真剣な表情になった。
「千夏ちゃん、それは先触れかもしれないね」
「先触れ?」
「この村では、盆踊りが始まる前に、先に来た霊が村はずれの古い神社まで歩いていくと言われているの。見た人は、自分の先祖が帰ってきた証だと」
私は背筋に冷たいものを感じた。あの女性は…母だったのだろうか。
その日の夕方、村の広場に櫓が組まれ、盆踊りの準備が整った。日が沈み始めると、村人たちが次々と浴衣姿で集まってきた。
「さあ、千夏ちゃんも着替えておいで」
大叔母に促され、私も母の形見の浴衣を着た。鏡を見ると、自分でも驚くほど母に似ていた。
「まるで真由美そっくりだねえ」大叔母が目を細めた。
夜8時、太鼓の音とともに盆踊りが始まった。輪になって踊る村人たちの中に、私も加わった。踊り方を知らない私は、周りの動きをただ真似るだけだったが、不思議と体が自然に動いていく感覚があった。
何周目かを踊っていた時、ふと違和感を覚えた。私の隣で踊っている女性が、どこかで見たような気がする。振り返ると、白い浴衣に赤い帯の女性が微笑んでいた。
「お母さん…?」
思わず声が漏れた。女性はかすかに微笑むと、踊りの流れに合わせて先に進んでいった。私は慌ててその後を追った。
「待って!」
輪から外れ、女性の後を追いかける私。彼女は振り返ることなく、村はずれの暗い道へと続く小道へ入っていった。
小道の先には、古びた鳥居が見えてきた。「鎮守神社」と書かれた石碑のある、小さな神社だ。
女性は鳥居をくぐり、境内へと入っていった。私もその後に続く。境内は月明かりだけが頼りの薄暗さで、女性の姿はますます幽かになっていく。
「お母さん、待って!」
神社の拝殿の前で、女性はようやく立ち止まった。振り返った顔は、間違いなく一月前に亡くなった母だった。
「千夏…」
かすかな声が耳に届いた。母の姿はうっすらと透けていて、月の光が透過しているのがわかる。
「どうして…ここに?」
「この村の盆踊りは特別なの。祖霊を呼び戻す力があるの」
母の声は風のように弱々しかったが、確かに聞こえた。
「私もね、千夏が生まれる前、自分の母を亡くした時、この神社で母の姿を見たの。それからずっと、毎年この盆踊りに参加してきたわ」
私は震える手を伸ばしたが、母の姿に触れることはできなかった。
「私が死んでも、あなたが踊れば、こうして会えるのよ。だからあの浴衣を残しておいたの」
母の姿がさらに薄くなっていく。
「あなたに言いたかったの。あなたのことを、ずっと見守っているって」
母の最後の言葉を聞いて、私の頬を熱い涙が伝った。
「お母さん…」
母の姿は完全に消え、代わりに暖かい風が私を包み込んだ。
その時、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。盆踊りはまだ続いている。
私は拝殿に向かって深く一礼すると、来た道を戻り始めた。途中、森の中から鈴の音が聞こえてきた。見ると、無数の小さな光が森の中を漂っている。まるで誰かが提灯を持って歩いているかのようだ。
「先祖の霊…」
思わず口にした言葉に、鈴の音が応えるように鳴った。
広場に戻ると、盆踊りの輪はさらに大きくなっていた。月明かりに照らされた踊り手たちの中には、どことなく透き通って見える人影もあった。しかし不思議と恐怖は感じなかった。
私は再び輪の中に入り、踊り始めた。今度は体が自然と踊りの動きを覚えていた。母から受け継いだ記憶なのかもしれない。
三日間の盆踊りの間、私は毎晩その輪に加わった。最終日の夜、踊りが終わった後、大叔母が私に言った。
「千夏ちゃん、見えたでしょう?」
私は黙って頷いた。
「この村の盆踊りは、生きている者と死者が一緒に踊るのよ。だから特別なの」
帰京の日、駅へと向かう途中、私は鎮守神社に立ち寄った。拝殿に向かって手を合わせ、「来年もまた会いに来るね」と心の中で誓った。
東京に戻った私は、部屋の片隅に小さな祭壇を作り、母の写真を飾った。そして、来年の夏、また鎮守野の盆踊りに参加することを決めていた。
母の浴衣を大切にしまいながら、私は窓の外を見た。夏の夕暮れ、遠くから聞こえてくるような気がする鈴の音。それは祖霊たちが私たちのそばにいることを知らせる、静かな証だった。
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2015年8月、山形県の人口わずか300人ほどの小さな集落で行われた盆踊りの際、複数の参加者が不思議な現象を体験したという記録が残っています。
地元の高校生が撮影した動画には、踊りの輪の中に、通常では説明できない複数の「光の筋」や「半透明の人影」が映り込んでいました。この動画は後に専門家によって分析されましたが、編集や加工の痕跡はなく、光学的錯覚でも説明できないものでした。
さらに驚くべきことに、踊りに参加した15人のうち11人が、「亡くなった家族や知人と一緒に踊っているような感覚があった」と証言しています。特に注目すべきは、東京から参加した女子高生の体験でした。彼女は半年前に亡くなった母親の姿を村はずれの神社で目撃し、会話をしたと主張。彼女が描写した母親の服装や言葉の詳細は、生前の母親を知る親族も「間違いない」と証言しています。
この集落では古くから「盆踊りの輪には死者も加わる」という言い伝えがあり、今も毎年8月13日から15日までの盆踊りには、遠方から多くの人々が訪れます。不思議なことに、この時期に限り、集落周辺では気温が周囲より2~3度低く保たれる現象も観測されています。
科学では説明できない現象が続くこの盆踊りは、「祖霊との再会の場」として、今も静かに伝統を守り続けています。