蝉時雨の家
炎天下の中、軽自動車のエアコンは全開だった。大学院生の直樹は運転席で額の汗を拭い、助手席の彼女・美香を見た。二人は夏休みを利用して、神奈川県の山間部にある美香の祖母の家を訪ねる途中だった。
「本当に大丈夫?おばあちゃん、私が来るって知らないんでしょ?」
直樹の問いに美香は軽く肩をすくめた。「たまには孫の顔を見せないとね。それに、祖母の家は築100年以上の古民家なの。あなたが日本建築史専攻なら、絶対見たいはずだから」
確かにその通りだった。直樹は論文のテーマに悩んでいたところだ。山間の伝統的家屋は格好の研究対象になるかもしれない。
カーナビを頼りに山道を進むと、舗装された道は次第に細くなり、両側から木々が迫ってきた。昼過ぎだというのに、日差しは木々に遮られ、薄暗く感じる。
「この辺りよ」
美香の指示で車を路肩に停め、二人は徒歩で細い山道を登っていった。蝉の鳴き声が耳をつんざく。
15分ほど歩いた先に、古びた二階建ての民家が姿を現した。日に焼けた木材と瓦屋根、苔むした石段。まさに直樹の想像通りの古民家だった。
「おばあちゃん、いるかな」
美香が玄関に近づき、戸を開けようとした時、老婆の声が中から聞こえた。
「美香か?来るって聞いてなかったよ」
美香の祖母・幸江さんは80代半ばにしては背筋がしっかりしていた。家の中に招き入れられた二人は、縁側に腰掛け、持参したお土産を渡した。
「あら、ありがとう。でも、どうして急に?」
美香は「直樹に古い家を見せたくて」と答えた。直樹は礼儀正しく挨拶し、家の歴史を尋ねた。
「この家はね、明治時代から私の家族が住んでるんだよ。戦争中も疎開してきた親戚でいっぱいだった」
直樹は興味深げに天井の梁や床の間を見回した。美香が台所に立ち、お茶を入れている間、幸江さんは直樹に家の案内をしてくれた。
「二階は物置みたいになってるんだが、見てみるかい?」
階段を上がると、確かに二階は古い家具や箱が積まれていた。直樹は注意深く足を進め、窓から見える山の景色に見入った。
「あの、幸江さん。この家には他に誰か住んでるんですか?」
「いいや、私一人だよ。なぜ?」
「今、誰かが階段を上がってくる音が…」
二人が振り返ると、階段の上り口に美香が立っていた。
「お茶が入ったわよ」
その夜、美香の祖母は二人のために布団を敷いてくれた。夏とはいえ山は夜になると冷える。虫の声を聞きながら、直樹は疲れた体を横たえた。
真夜中、直樹は何かの気配で目を覚ました。すぐ隣に美香が眠っている。部屋の隅に目をやると、そこに小さな影が立っていた。子供のような、しかし人間とは思えない何か。
直樹が身を起こすと、その影はするりと壁に消えた。
「どうしたの?」美香が眠そうな声で尋ねた。
「いや、何でもない」直樹は再び横になったが、眠れなかった。
翌朝、朝食の席で直樹は勇気を出して幸江さんに尋ねた。
「この家に、子供の霊が出るという話はありますか?」
美香が驚いた顔をしたが、幸江さんは静かに頷いた。
「そういえば、昔この家には分家の子供たちも住んでいたんだよ。特に、私の従兄弟の息子・勝は、この部屋が好きだった。戦争中の空襲で亡くなったんだが…」
幸江さんの話によれば、勝は疎開してきていたが、一時的に街に戻った時に空襲に遭ったという。7歳だった。
「勝は蝉取りが好きでね。夏になるとよく『蝉の声が聞こえる』って言ってた」
その日の午後、直樹が家の周りを散策していると、異様に強い蝉の声に包まれた。振り返ると、二階の窓に小さな人影が見えた。
「美香?」と呼びかけたが、返事はない。
帰京の時、荷物をまとめていると、直樹のバッグの中から一匹の蝉の抜け殻が出てきた。自分では入れた覚えがない。
「これ、どこから?」
美香も首を傾げた。車に乗り込もうとした時、二人は振り返って家を見た。二階の窓からは、小さな手が振られているように見えた。
「また来るね、おばあちゃん」
美香がそう言った時、一瞬だけ蝉の声が止んだ気がした。
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1995年8月に神奈川県の山間部で実際に起きた出来事である。地元の古民家を調査していた大学の研究チームが、滞在中に原因不明の蝉の鳴き声を録音した。後の分析でその蝉の種類は、その地域では50年以上前に絶滅したとされる種であることが判明した。また、録音には子供の笑い声のような音も混じっており、家の所有者によると、その家で戦時中に亡くなった子供がいたという。現在もその録音は大学の民俗学研究室に保管されている。