漂着の囁き
夏休み初日の朝、千尋は父から突然の知らせを受けた。父方の祖父が脳卒中で倒れ、彼女の両親は急遽看病のため九州へ発つという。そして千尋は、母方の祖母が住む三重県の小さな漁村「鯨浦」で夏休みを過ごすことになった。
「祖母さんとは、何年ぶりだろう」
特急列車の窓から見える景色が徐々に都会から田舎へと変わっていく中、千尋は考えていた。小学生の頃に一度訪れただけの記憶は薄く、ただ海の匂いと潮風の感触だけが鮮明に残っていた。
鯨浦駅に降り立った千尋を、七十代半ばの祖母・春子が出迎えた。
「千尋ちゃん、大きくなったねぇ。もう高校生だっていうのに、おばあちゃん信じられないよ」
春子は相変わらず元気で、軽トラックを運転して海辺の古い家へと千尋を連れて行った。
家は想像していたより大きく、明治時代に建てられたという木造二階建ては、漁師町の中でも特に風格があった。
「昔はね、この家が鯨浦の海神様をお祀りする役目だったんだよ」
縁側に腰掛けながら春子が説明した。家の前には美しい砂浜が広がり、波の音が心地よく響いていた。
「海神様?」
「そう。うちの先祖は代々、海の神様との縁を取り持つ役目を担ってきたの。今でも毎年7月20日には、『潮祭り』があってね」
千尋は興味深く聞いていた。潮祭りは明後日だという。村人たちが砂浜に集まり、海の神様に豊漁と安全を祈願する伝統行事だった。
その日の夕方、千尋は祖母の家の片付けを手伝っていた。二階の客間を掃除していると、押し入れの奥から古い木箱を見つけた。
「これは?」
箱を開けると、中には古ぼけた人形が入っていた。髪の毛は長く、着物を着せられているが、顔は白く、まるで能面のように表情がない。
「あぁ、それは人魚様よ」
階段を上がってきた春子が説明した。
「人魚様?」
「この村では、海の神様の使いとして人魚を敬ってきたの。昔は毎年、潮祭りの日にこの人形を海に流したんだけど、今はもうしなくなったねぇ」
春子の表情が曇った。
「なぜですか?」
「30年前、潮祭りの夜に、村の若者3人が海で溺れて亡くなったの。それ以来、人魚様を海に流す儀式はやめになった」
千尋は人形を箱に戻した。しかし何故か、その人形の顔が頭から離れなかった。
その夜、千尋は潮騒を聞きながら眠りについた。夢の中で、彼女は海の底にいた。そこには白い肌と長い黒髪を持つ美しい女性がいて、千尋に向かって手を伸ばしていた。
「戻してください…約束を…」
その声は悲しげで、どこか責めるような調子だった。
千尋が目を覚ますと、既に朝日が昇っていた。窓の外を見ると、昨日までは穏やかだった海が荒れ始めていた。
「おばあちゃん、海が荒れてる」
「そうねぇ。天気予報では台風が近づいているって言ってたけど…」
春子は少し心配そうに海を見つめた。
朝食後、千尋は浜辺を散歩することにした。海は次第に荒れ、灰色の雲が空を覆い始めていた。
砂浜を歩いていると、波打ち際に何かが打ち上げられているのが見えた。近づいてみると、それは長い黒髪が絡まった白い何か…まるで人の手のようだった。
千尋は恐る恐る近づき、目を凝らした。しかし次の大きな波が寄せてきた時、その物体は海に引き戻されてしまった。
「気のせいかな…」
その日の夕方、村の漁師たちが集まって緊急会議が開かれた。予想以上に台風が接近しており、明日の潮祭りを延期するかどうかを話し合うためだった。
「延期すべきだ」
「いや、海の神様を怒らせるわけにはいかない」
意見は二分された。千尋は祖母と共に会議を見守っていた。
最終的に、潮祭りは予定通り行うことが決まった。しかし、海に出る儀式は簡略化し、危険な部分は省くことになった。
会議から帰る道すがら、春子は深いため息をついた。
「おばあちゃん、大丈夫?」
「ああ…ただね、こういう時こそ本来の潮祭りをすべきだと思うんだよ。人魚様を海に戻す儀式も含めて」
千尋は昨夜の夢を思い出していた。「戻してください…約束を…」という言葉が耳に残っていた。
「人魚様…それって、あの人形のこと?」
「そう。伝説では、人魚は海の神様の使いで、毎年人間の姿をした人形を通じて村人たちの気持ちを海の神様に伝えるんだって。でも30年前の事故以来、その儀式はやめてしまった」
その夜、千尋の部屋の窓をびしょ濡れの手が叩く音で目が覚めた。カーテンの隙間から見える窓ガラスには、水滴が伝っていた。しかし外は雨ではなく、ただ風が強いだけだった。
千尋が窓に近づくと、海の方から何かの声が聞こえてきた。まるで誰かが名前を呼んでいるかのようだった。
「千尋…千尋…」
恐る恐る窓を開けると、潮の香りが強く部屋に流れ込んできた。そして浜辺に一人の女性が立っているのが見えた。長い黒髪と白い着物…その姿は、押し入れにあった人形にそっくりだった。
女性は千尋に向かって手を伸ばし、何かを訴えているようだった。
千尋は思わず部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。玄関から外に出ると、強い風が彼女の髪を乱した。
浜辺に立つ女性の方へと走り出す千尋。しかし近づくにつれ、女性の姿はどんどん海の中へと後退していった。
「待って!」
千尋が叫んだ瞬間、大きな波が押し寄せ、女性の姿は完全に海の中に消えた。
翌朝、千尋が目を覚ますと、自分がベッドで横になっていることに気づいた。昨夜のことは夢だったのだろうか。しかし、彼女のパジャマの裾には砂がついていた。
「千尋ちゃん、大変なの!」
春子が慌てた様子で部屋に入ってきた。
「何があったの?」
「台風が急に進路を変えて、このまま村に直撃するって。潮祭りは中止になったよ」
千尋は窓の外を見た。海は見たこともないほど荒れ狂い、空は真っ黒な雲に覆われていた。
「おばあちゃん…人魚様の人形、どこにあるの?」
「え?押し入れに…」
千尋は二階の客間に駆け上がり、押し入れを開けた。しかし、木箱はそこになかった。
「おかしい…昨日ここにあったのに」
春子も不思議そうに首をかしげた。
その時、千尋の頭に昨夜の出来事がフラッシュバックした。もしかして、あれは夢ではなかったのか。
「おばあちゃん、私、あの人形を持って海に行ったのかも…」
春子の顔から血の気が引いた。
「それじゃあ…」
二人は急いで浜辺へと向かった。海は既に防波堤を越え、道路まで水が押し寄せていた。
浜辺に着くと、春子は海に向かって深々と頭を下げた。
「海の神様、どうか怒りを鎮めてください。私たちが約束を守れなかったことをお許しください」
その瞬間、千尋は海の中に、あの白い女性の姿を見た気がした。女性は微笑み、静かに頭を下げるようなしぐさをした。
不思議なことに、その直後から風は徐々に弱まり始め、雲の間から太陽の光が差し込んできた。
「海の神様が、私たちの謝罪を受け入れてくださったのね」
春子は安堵の表情を浮かべた。
その日の午後、村の長老たちが集まり、緊急の儀式が行われた。30年ぶりに新しい人魚の人形が作られ、正式な祈りの言葉とともに海に流された。
「これからは毎年、ちゃんと人魚様を海に戻しましょう」
村長が宣言すると、村人たちは皆、頷いた。
その夜、千尋は再び海の夢を見た。しかし今度は、恐ろしいものではなく、穏やかなものだった。白い肌の女性は微笑み、千尋に感謝の言葉を告げた。
「約束を思い出してくれて、ありがとう」
千尋が夏休みを終えて東京に戻る日、海は信じられないほど穏やかで美しかった。
「また来るね、おばあちゃん」
春子を抱きしめながら、千尋は静かに海にも別れを告げた。
遠ざかる電車の窓から海を見つめていると、波の上に白い何かが光るのが見えた気がした。それは人魚の姿か、あるいは単なる波の泡か。
千尋には分からなかったが、心の中で静かに呟いた。
「また来年、会いましょう」
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2018年8月、三重県の小さな漁村で起きた不可解な現象は、今も気象学者たちを困惑させています。
当時、大型台風が直撃コースを進んでいたこの村に対し、気象庁は最大級の警戒を呼びかけていました。しかし台風は予測に反し、村の沖合わずか20キロの地点で突如進路を変え、勢力も急速に弱まったのです。
この現象を調査していた研究チームは、台風進路変更の直前、村の浜辺で古式に則った海神祭が緊急開催されていたことを発見しました。特に注目すべきは、30年ぶりに復活した「人魚送り」と呼ばれる儀式です。