海からの呼び声
真夏の太陽が輝く8月初旬、高校二年の僕、高橋直人は地元の友人たちと三日間の海水浴キャンプに出かけた。目的地は、静岡県の僻地にある「鯨浦海岸」。観光地化されていない小さな漁村で、地元の人しか知らない穴場スポットだった。
「ここなら人も少ないし、思いっきり遊べるぜ!」
幼馴染の健太が誘ってきたとき、僕は少し迷った。鯨浦海岸については、地元では奇妙な噂が絶えないからだ。「夜になると海から奇妙な声が聞こえる」「毎年夏に一人は海に消える」といった類のものだ。
「そんな都市伝説、気にするなよ」と健太は笑い飛ばした。
僕たち五人は、漁師から借りた古い小屋に荷物を置くと、すぐに海に飛び込んだ。観光客のいない海は透明度が高く、魚の群れが足元を泳ぎ回っていた。
その日の夕方、近くの磯で貝を採っていると、地元の老漁師・佐伯さんが声をかけてきた。
「若いの、鯨浦の海で泳ぐなら、気をつけなきゃいけねぇことがある」
佐伯さんによれば、この海には「御前様」と呼ばれる存在が住んでいるという。半人半魚の姿をしたその存在は、普段は漁師たちに豊漁をもたらす守り神だが、七年に一度の夏には生贄を求めるのだという。
「今年がちょうど七年目だ。日が沈んだら海に近づくんじゃない。特に、名前を呼ばれても振り返っちゃいけねぇ」
僕たちは半信半疑で話を聞いたが、健太は鼻で笑った。「昔からの言い伝えですよ。子供を海の事故から守るための脅し話です」
その夜、僕たちは浜辺で焚き火を囲み、肝試しの話に花を咲かせた。暑さで眠れなかった僕は、みんなが寝静まった午前二時頃、一人で浜辺に出た。満月の光が海面を銀色に染め、美しい光景が広がっていた。
波打ち際で足を水に浸していると、不意に「直人…」と名前を呼ぶ声が聞こえた。声は確かに海の方から。
「誰だ?」僕は周囲を見回したが、誰もいない。幻聴だと思い、小屋に戻ろうとした瞬間、再び声が聞こえた。
「直人…会いたかった…」
女性の声だった。どこか懐かしく、心を掴むような声。思わず海を見つめると、沖合いに人影が見えた。月明かりに照らされて、長い髪を波間になびかせている。
僕は思わず足を踏み出した。冷たい波が膝まで浸かっても、僕の目は人影から離れなかった。「直人…こっちにおいで…」と声は優しく囁く。
その時、背後から強い力で引っ張られた。振り返ると、佐伯さんが必死の形相で僕の腕を掴んでいた。
「言っただろう!夜の海に近づくなって!」
佐伯さんに連れられて浜辺に戻ると、彼は震える声で語り始めた。
「あれは御前様だ。七年前、この海で命を落とした者たちの姿を借りて現れる。昔から鯨浦の海は、七年に一度、必ず誰かを連れていくんだ」
その話を聞いて、僕は凍りついた。七年前、僕の従姉妹の美咲が、この海で行方不明になったのだ。
「じゃあ、今の声は…」
佐伯さんは沈痛な面持ちで頷いた。「御前様は、大切な人の姿や声を借りて誘う。だから危険なんだ」
翌朝、僕は友人たちに昨夜のことを話した。健太は半分信じない様子だったが、他のメンバーは不安そうな顔をしていた。
「やっぱり今日で切り上げて帰ろうよ」と提案する者もいたが、健太は首を振った。
「せっかく来たんだ。最後の夜くらい楽しもうぜ。ただ、夜は海に近づかないようにしよう」
その日は海から離れた山側で過ごした。洞窟探検や滝巡りをして、日が暮れる頃には全員疲れ切っていた。
キャンプ最後の夜、僕たちは早めに就寝した。深夜、突然の物音で目を覚ますと、健太のベッドが空になっていた。
「健太?」
小屋の中を探したが、彼の姿はない。不安になって外に出ると、月明かりの下、健太が海に向かって歩いているのが見えた。
「健太!戻れ!」
僕は叫びながら走った。健太は振り返らず、すでに腰まで海に浸かっていた。近づくと、彼は虚ろな目で前方を見つめている。
「綺麗な歌が聞こえるんだ…海の中から…」
健太の耳を塞ぎ、無理やり浜辺に引き戻した。彼の意識が戻るまでに数分かかった。
「何があったんだ?」
健太は混乱した様子で首を振った。「覚えてない…ただ、誰かが歌う声が聞こえて…それがすごく懐かしくて…」
その夜、僕たちは交代で見張りを立て、誰も海に近づかないよう注意した。
翌朝、急いで荷物をまとめて鯨浦を後にした。バスに乗り込む直前、佐伯さんが僕に古ぼけた御守りを手渡した。
「これは鯨浦の御前様を鎮める御守りだ。持っていれば、あの声はもう聞こえない」
帰宅後、僕は祖母に鯨浦での出来事を話した。祖母は深いため息をついた。
「あの浜は昔から神聖な場所なんだよ。海神様が住むと言われてきた。七年に一度の夏には、海と陸の境目が薄くなる…」
祖母によれば、御前様は単なる恐ろしい存在ではなく、海の豊かさをもたらす神でもあるという。しかし時に、人間の魂に惹かれ、共に海底で暮らそうと誘うのだと。
それから一年後、僕は佐伯さんから一通の手紙を受け取った。鯨浦では今年、記録的な大漁が続いているという。
「御前様は満足したようだ。だが七年後には、また誰かを求めてくるだろう」
手紙の最後には、こう書かれていた。
「七年後、君が大人になった時、もし鯨浦に戻ってくるなら、くれぐれも夜の海に近づくな。どんなに懐かしい声が聞こえても、振り返ってはいけない」
僕は今でも時々、あの夜聞いた美咲の声を思い出す。そして考える―御前様は本当に美咲の魂を抱いているのか、それとも単なる幻なのか。
いつか、その答えを知る日が来るのかもしれない。七年後の夏、鯨浦の海が再び誰かを呼ぶとき。
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2018年8月、静岡県の人里離れた漁村で実際に起きた不可解な出来事が今も地元の人々の間で語り継がれています。
夏季限定で開かれた海の家で働いていた大学生5人のグループが、閉店後の深夜に奇妙な体験をしました。彼らが証言によれば、満月の夜、海から複数の声が聞こえてきたといいます。それぞれが「自分の名前を呼ぶ声」を聞き、不思議なことに、その声はそれぞれの「亡くなった家族や友人の声」だったと全員が一致して証言しています。
この現象を調査した民俗学者は、この地域に伝わる「七年周期で現れる海神」の伝承と関連があるのではないかと指摘しています。実際、この漁村では七年ごとに不審な失踪事件や海難事故が起きており、地元の古文書にも同様の記録が残されているそうです。
さらに興味深いことに、その夜、海岸に設置された監視カメラには、沖合いに複数の人影のような光の帯が映っていました。映像解析の専門家も「通常の反射や屈折では説明できない現象」と結論づけています。
現在、この海岸では夏の満月の夜には立ち入り禁止の措置がとられており、地元漁師たちは今も海に出る前に「御前様」への祈りを欠かさないといいます。