入江の囁き
夏休み初日、私たち高校の写真部は合宿のため、C県の小さな漁村「鵜来浜」にやってきた。人口わずか200人ほどの集落で、観光客向けの施設もほとんどなく、唯一の民宿「潮音」に宿泊することになった。
「ここ、本当に海水浴場なの?」
後輩の中島が不安そうに呟いた。確かに、都会の賑やかな海岸とは違い、鵜来浜は岩場が多く、入江のような小さな砂浜が一つあるだけだった。
「昔は人気のある海水浴場だったんだよ」
顧問の高橋先生が説明した。「でも15年前に遊泳禁止になってね。それでも風景写真の題材としては最高だから、毎年ここで合宿してるんだ」
「遊泳禁止?事故でもあったんですか?」と私。
「そうらしいね、詳しくは聞いてないけど」
そう言って先生は話題を変えた。
民宿「潮音」は、白い漆喰の古い二階建て。玄関には魚の骨や貝殻で作られた風鈴が下がり、潮風に揺られてカランカランと鳴っていた。
「いらっしゃい。待ってたよ」
民宿の女将・菊池さんが迎えてくれた。60代くらいの女性で、焼けた肌と力強い握手からは、漁村で生きてきた強さが感じられた。
その日の夕食後、私たちは部屋で明日の撮影計画を立てていた。女子3人、男子4人、そして顧問の計8人。部長の佐藤が地図を広げ、撮影ポイントを指示していたとき、ふと窓の外から声が聞こえた。
「海、おいで…」
かすかな女性の声。まるで子供を呼ぶような優しさと、どこか人を惹きつける魅力を持っていた。
「今の、聞こえた?」
私が尋ねると、みんな首を傾げた。どうやら私だけが聞いたようだ。
夜、布団に入っても、あの声が頭から離れなかった。「海、おいで…」
翌朝、早起きした私は一人で入江に向かった。朝日が水面を黄金色に染め、波が岩に打ち付ける音が心地よい。カメラを構えていると、波間に何かが見えた気がした。人影?いや、もっと大きな…魚?
「きれいな朝だね」
突然後ろから声がして、振り返ると菊池さんが立っていた。
「あの、この浜で事故があったって本当ですか?」
私は思い切って尋ねた。
菊池さんの表情が一瞬曇った。
「ああ、あれか…15年前、高校生の団体が来たときの話だね」
彼女の話によると、当時この浜に遠足で訪れた高校生のうち5人が、突然の高波にさらわれたという。4人は助かったが、1人の女子生徒が行方不明になり、3日後に遺体で発見された。
「でも、変なんだよ」
菊池さんは海を見つめながら続けた。
「見つかった子の肺に水は入ってなかったんだ。溺死じゃなかった。それに…」
「それに?」
「体が変わっていたんだよ。皮膚が鱗のように硬くなって、指の間には薄い膜が…」
彼女は急に口を閉ざした。
「ごめん、こんな話して。迷信を信じる年寄りの戯言さ」
その日、私たちは二手に分かれて村の風景を撮影した。昼過ぎ、私は一人で灯台近くの岩場にいた。潮が引き、岩の間に小さな潮だまりがいくつもできている。
カメラのファインダーを覗いていると、また声が聞こえた。
「海、おいで…」
今度ははっきりと、近くから。私は周囲を見回したが、誰もいない。ただ潮だまりに映る自分の姿と…その後ろに立つ、長い髪の少女の影。
「!」
振り返ったが、そこに人影はなかった。再び水面を見ると、そこにも少女の姿はない。幻だったのか。
夕方、みんなで集合写真を撮ることになった。入江を背景に8人が並び、菊池さんにシャッターを押してもらった。
「じゃあ、夕食の前に入江で日没も撮りましょう」
先生の提案で、私たちは再び浜へ向かった。
夕暮れの海は、朝とは違う表情を見せていた。赤く染まる水平線、紫がかった雲、そして黒く沈む波。美しいけれど、どこか不気味だった。
「あれ、中島がいない」
ふと気づいて辺りを見回したが、後輩の姿が見当たらない。
「さっきまでここにいたのに…」
佐藤が困惑した顔で言った。
私たちは手分けして中島を探し始めた。浜を走り回り、岩場の隙間も確認したが、見つからない。
そのとき、再び聞こえた。
「海、おいで…海に還りなさい…」
声は入江の奥、波が岩に打ち付ける場所から聞こえていた。私は直感的にその方向へ走った。
入江の奥の岩場に着くと、そこには中島がいた。彼は海に向かって歩いていく。しかし、その前には長い髪をなびかせた女性が立っていた。少女ではなく、今度は大人の女性の姿。彼女は中島に手を差し伸べ、微笑んでいる。
「中島!」
私は叫んだ。
中島は振り返らず、女性の方へ一歩、また一歩と進んでいく。私は必死に追いかけ、彼の腕をつかんだ。
「中島!何してるの!」
彼はまるで催眠術にかかったように、虚ろな目で私を見た。
「海に…行かなきゃ…呼んでる…」
その時、波が私たちの足元を強く打ち、バランスを崩した。中島の腕から手が離れそうになったが、必死に掴み直した。
「こっちにおいで…」
女性の声がさらに強く、魅力的になる。振り返ると、彼女は水面から半身を出し、私たちを見つめていた。その瞳は人間のものではなく、魚のように横に細長く、緑色に輝いていた。
「助けて!誰か!」
私は叫んだ。すると、駆けつけてきた先生と部員たちが中島を引き戻してくれた。女性の姿は波の中に消えた。
中島は一時的に意識を失ったが、すぐに回復した。しかし、彼は女性を見たことも、海に誘われたことも覚えていなかった。
その夜、菊池さんは古い写真アルバムを見せてくれた。
「15年前に亡くなった女の子だよ」
写真に写っていたのは、長い黒髪の美しい少女。彼女は海辺で笑っていた。
「彼女、泳ぎが苦手だったんだよ。でも、誰かに誘われたように海に入っていったって、生き残った子たちが言ってた」
次のページをめくると、鵜来浜の古い写真があった。そこには、多くの村人が集まり、海に向かって何かの儀式をしている様子が写っていた。
「昔はね、毎年夏至の日に海神様への奉納があったんだ。豊漁を祈って、村一番の美しい娘が海に入り、神様に仕えるという…」
菊池さんは静かに言った。
「でも、それは江戸時代の話。今は迷信だとみんな笑うよ」
その夜、私は不思議な夢を見た。入江の底に広がる美しい宮殿。そこで多くの女性たちが暮らしている。彼女たちの下半身は魚のようで、上半身は人間だった。そして、宮殿の中央に座る威厳ある存在—海神。神は新しい花嫁を求めていた…
目覚めると、私の枕元に海藻が一筋置かれていた。窓を開けると、朝の海から微かに聞こえる声。
「また来年…待っています…」
私たちの合宿は予定を1日短縮して終了した。帰りの電車で、顧問の先生は私に言った。
「実は、この村には奇妙な言い伝えがあるんだ。夏の満月の夜、海の中から声が聞こえる人は、海に選ばれた人だと…」
それから数日後、合宿で撮った写真を現像していると、ある写真に気づいた。入江を背景に撮った集合写真。私たち8人の後ろの波間に、はっきりと9人目の姿が写っていた。長い髪をなびかせた女性が、こちらを見つめている。
そして今年の夏、私はまた、あの声を聞いている。
「海、おいで…」
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2008年8月、静岡県の小さな漁村で実際に起きた不可解な出来事として、地元の新聞に報じられたのは、高校の写真部が撮影した集合写真に写り込んだ「余計な人物」の存在でした。
当時、合宿中の高校生たちが浜辺で撮影した集合写真には、8人のはずの部員の後ろに、9人目の人物—長い髪の女性の姿がはっきりと写っていました。写真を撮影したのは地元の民宿の女将で、彼女は「シャッターを押した時、そこに誰もいなかった」と証言しています。
写真の分析を依頼された専門家は「合成や二重露光ではない」と結論づけ、この写真は「霊的現象の証拠」として全国のオカルト雑誌で取り上げられました。
さらに興味深いことに、その写真が撮影された浜は、江戸時代に「人身御供」の儀式が行われていたとされる場所。古文書には「海神への奉納として、15年に一度、選ばれた娘が海に入る」という記述が残っています。
地元の古老によれば、写真に写った女性の姿は、昭和初期に行方不明になった村の娘に酷似しているといいます。その娘は満月の夜に「海から声が聞こえる」と言い残して姿を消し、3日後に奇妙な状態の遺体で発見されたといいます。
現在もこの浜は遊泳禁止区域となっており、夏の満月の夜には、波間から人を呼ぶ声が聞こえるという噂が絶えません。