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怖い話  作者: 健二
☆★
26/40

「夏霧の常紋トンネルで ――埋められた線路の下」


 七月半ば、私は道東を巡る鉄道廃線ルポの取材で、石北本線の旧線に残る「常紋トンネル」へ向かった。網走側の坑口は草に覆われているが、上り列車は今も日に数本、闇の中を抜けていく。

 問題はトンネルの誕生過程だった。大正三(一九一四)年の開通までに、タコ部屋と呼ばれた強制労働者が百数十人単位で死亡し、遺体が坑壁や枕木の下に“埋め込まれた”という証言が残る。現場の慰霊碑には、実名を刻めないまま「殉難者諸精霊」とだけ彫られている。


 七月二十三日 午後九時三十分。私は許可を取り、単独で下り側の坑口に三脚を構えた。蒸気が凝結したような霧が、レールの上に帯状に溜まっている。三脚の脚が枕木に触れた瞬間、鈍い金属音が響いた。

 「ガン……」

 列車の来ない筈の時間帯。振動は一度きりで止まったが、レールはかすかに震えを残していた。


 カメラのシャッターを切ると、フレームの端に白い塊が写った。濃霧の柱にも見えるが、拡大すると作業帽をかぶった人影のようにも見える。

 そのとき背後から、誰かの息がかかった。

 「……ひ、ひく」

 掠れた声が耳元で崩れた。反射的に振り返ると、足もとの砂利に古びた“犬釘”が突き刺さっていた。レールを枕木に固定する太い釘だ。だが十メートルほど後方で作業灯が揺れ、つづいて複数の足音が霧を押し分けて近づいて来る。


 私はストロボを焚きながらトンネル内へ逃げた。坑壁は粗い花崗岩で、ところどころ漆喰の継ぎ目が湿って黒い筋になっている。

 奥へ進むと、突然レールが途切れ、木枕木だけが残された区画に出た。撤去工事の痕跡──のはずが、枕木は新しい。表面の防腐材がまだ匂うのに、ところどころ人の歯列のような白骨片が突き出していた。


 そこで私は、かつての坑夫が残したという“合図灯”を見た。小型ランプが枕木の端に置かれ、青白い光がレンズの中で脈打っている。しかし火屋に入る芯はなく、灯りはどこからも供給されていない。

 幽かなランプの明滅に合わせるように、背後の空気が震える。土留めの壁面から、濡れた手形がじわりと浮き出た。五本の指先が、内部から石を押し退けるように盛り上がり、次の瞬間──


 「ベリッ」


 岩肌が裂け、一瞬だけ外気が流れ込んだ。湿土と一緒に捩じれた縄がはみ出す。その縄に絡まる白骨の手首が、私の足首を掴んだ。

 私は悲鳴を呑み込み、カメラで手首を殴りつけた。石の割れる音。すると坑道の奥から、複数の男たちの低い唸り声が重なった。言葉ではない。咽を潰された獣の呼吸が、四方の壁から反響してくる。


 気づくと、合図灯は赤色に変わり、点滅速度が速くなっていた。古い作業日誌に「赤二閃は退避せよ」と書かれていた危険信号だ。

 直後、坑口側から轟音が押し寄せた。列車の通過音に酷似しているが、石北本線の終列車は一時間前に通過済み……。

 視界に現れたライトは、古い蒸気機関車の備え付け灯に見えた。煙突も車輪もない光だけの車体が、レールのない枕木の上を突進して来る。


 私は壁に張り付くが、どこまでも骨の手が飛び出し、背中を引きずり込もうとする。

 やむなく坑道脇の避難壕へ飛び込んだ。壕は一畳ほど。奥の壁になにかが埋まっている。ランプを翳すと、まるで壁画のように、人間の輪郭がモルタルで塗り固められていた。鼻梁と唇の僅かな隆起――生きたまま封じ込められたのだろうか。


 突然、モルタルの胸部が膨らみ、鼓動のように震えた。

 「ドン……ドン……」

 列車音と同期する心臓の鼓動。私は覚悟を決め、携行の鉄槌でその胸を叩いた。三度目で殻が割れ、黒い空気が噴き出す。

 同時に列車の轟音が途切れ、坑道は闇に沈んだ。


 霧がゆっくりと晴れ、枕木の白骨も、赤い合図灯も消えていた。レールの続く床が現実の鈍い鉄色を取り戻す。

 外へ這い出ると、夜風が涼しい。空には曇り月だけがかすんでいる。


 しかし翌朝、慰霊碑の前で地元保存会の方に写真を確認してもらうと、私のメモリカードには一枚だけ“赤い二閃”のランプが写っていた。周囲の霧の中、半透明の作業帽の人影が列を成し、私の背中に向けて一斉にヘルメットを脱いでいる――帽の中は空洞で、顔がない。


 保存会の古老は静かに言った。

 「たまに、夜歩くと汽笛もレールもない列車の音が聞こえる。乗ってるのは、名前を刻んでもらえなかった人たちだろうね」


 その言葉どおり、今でも私は耳鳴りが列車のリズムを刻み始めると、無意識に時計を見てしまう。赤二閃の点滅は「退避せよ」だと叩き込まれたからだ。

 もし深夜、線路際で規則的な金属音が足下を這い、耳元で誰かが「ひく」と囁いたら――あなたも、とにかく逃げた方がいい。


 彼らは蒸気も煙もなく、ただ線路の下から立ち上がり、名簿に載らないまま列車を押して進み続けている。

 百年以上を過ぎても、常紋の闇が完全に静まることはない。呻き声の上に、遠い汽笛がかすかに重なった気がしたら、それはあの夜の列車の、次の停車合図なのだから。


【引用元】

 ・北海道オホーツク総合振興局公式サイト「常紋トンネル殉難者慰霊碑」

 ・山本命著『北の強制労働史 常紋トンネルの闇』(北海道出版企画センター)

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