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怖い話  作者: 健二
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稲の間からの囁き


「真夏の田んぼに近づいちゃダメ。特に日が沈みかけた頃はね」


祖父の言葉を思い出したのは、あの日、遠くから稲穂の揺れる音が聞こえた時だった。


私の名前は倫子。都会育ちの高校二年生。両親の離婚をきっかけに、この夏から母の実家がある新潟の農村で暮らすことになった。東京の喧騒から一転、四方を田んぼに囲まれた古い家での生活が始まった。


初めは退屈で仕方なかった。スマホは電波が弱く、友達とのLINEもままならない。けれど祖父は優しく、毎日のように昔話を聞かせてくれた。特に印象に残ったのが「案山子様」の話だった。


「昔からこの村では、田んぼに立てる案山子は単なる鳥避けじゃない。田の神様の依り代なんだよ」


祖父の話によれば、案山子には村人の霊が宿るという。特に若くして亡くなった人の魂が、田を守るために案山子になるのだと。


「だから日没後の田んぼに入ってはいけない。案山子様が歩き出す時間だからね」


私はそんな話を半信半疑で聞いていた。現代の高校生が、そんな迷信を信じるわけがない。しかし、この村に来て二週間目の夕方、私はその言い伝えが単なる迷信ではないことを知ることになる。


その日、私は近所に住む同い年の少女・菜穂と仲良くなった。彼女は地元の高校に通っており、私を案内してくれると言ってくれた。二人で村はずれまで自転車で行き、帰り道、田んぼの畦道を通ることにした。


「こっちの方が近道だよ」と菜穂は言った。


時計を見ると午後六時半。まだ明るかったが、太陽は西の山に近づいていた。私は祖父の言葉を思い出して少し躊躇したが、友達ができた嬉しさもあり、ついていくことにした。


稲穂が黄金色に輝き始める田んぼの間を、二人で自転車を押しながら歩いた。途中、菜穂が立ち止まった。


「あれ、見て。新しい案山子が立ってる」


彼女が指さす方向に目をやると、確かに見覚えのない案山子が一体、田んぼの真ん中に立っていた。藁で作られた体に、白い布の顔。風も無いのに、少し揺れているように見えた。


「変だね。おじいちゃんが新しい案山子を立てたなんて言ってなかったよ」


菜穂は首を傾げた。「でも、最近亡くなった人もいないし…」


その言葉に、私は不思議に思った。「亡くなった人って、何か関係あるの?」


「知らないの?ここでは誰かが亡くなると、その人の古着を使って案山子を作るんだよ。田んぼを守ってもらうために」


その話を聞いた瞬間、遠くから風の音が聞こえてきた。しかし風はない。それは稲穂が揺れる音だった。まるで誰かが田んぼの中を歩いているかのように、稲が波打っている。


「帰ろう」と私は言った。「もう遅いよ」


しかし菜穂は気にした様子もなく、むしろ興味深そうに案山子に近づこうとした。


「ちょっとだけ見てみようよ。何か変わった案山子みたいだから」


制止する間もなく、菜穂は畦道から田んぼに足を踏み入れた。彼女が数歩進んだとき、突然、稲穂の間から低いうめき声が聞こえた。


「菜穂、戻ってきて!」


私の叫び声に振り返った菜穂の表情が、恐怖で歪んだ。彼女の後ろ、稲の間から何かが立ち上がったのだ。


それは先ほどまで見ていた案山子ではなかった。いや、同じ案山子なのに、場所が変わっていた。田んぼの真ん中にあったはずが、今や菜穂のすぐ後ろに立っている。


「動かないで」


菜穂が固まる中、私は震える声でそう言った。案山子は風もないのに、ゆっくりと揺れ始めた。そして、藁で作られたはずの腕が持ち上がり、菜穂の肩に触れようとした。


「走って!」


私の叫び声と同時に、菜穂は我に返り、田んぼから飛び出してきた。二人は自転車を置き去りにして、全力で走った。振り返る勇気もなかった。


家に着くと、祖父は心配そうな顔で玄関に立っていた。


「どうした?二人とも真っ青だぞ」


震える声で私たちが体験したことを話すと、祖父は顔色を変えた。


「案山子様に会ったのか…今日は月遅れのお盆だというのに」


祖父の説明では、この地方では旧暦のお盆を重視しており、今日はちょうど月遅れのお盆の入りの日だった。先祖の霊が戻ってくる日であり、案山子様も特別な力を持つという。


「でも、おかしいな。新しい案山子が立っているなんて…」


祖父は眉をひそめた。そして突然思い出したように言った。


「そういえば、昨日、隣村で身元不明の遺体が見つかったという話を聞いたよ。もしかしたら…」


その夜、私は悪夢にうなされた。夢の中で、稲穂の間から無数の手が伸び、私を引きずり込もうとする。目が覚めると、窓の外から稲の揺れる音が聞こえた。


翌朝、祖父と共に昨日の場所へ行ってみると、自転車はそのままだったが、案山子の姿はなかった。田んぼの中には、ただ稲穂が風に揺れるだけだった。


「気のせいだったのかな」と私が言うと、祖父は首を横に振った。


「いや、案山子様は本当にいる。ただ、日中は普通の案山子に戻るんだ」


祖父は私に、この村の古い言い伝えを詳しく話してくれた。昔から、この地域では田んぼに溺れたり、田仕事中に亡くなった人の魂は田の神になるという。そして時々、身寄りのない死者の魂が案山子に宿り、新たな依り代を求めてさまようことがあるのだという。


「あの案山子は、おそらく隣村で見つかった身元不明の人の魂だったのかもしれないな」


その日の午後、警察が家に来た。隣村で見つかった遺体の身元が判明したという。三ヶ月前に失踪した旅行者で、事故で田んぼに落ちて亡くなったらしい。


「ところで」と警官は言った。「昨日の夕方、田んぼのあたりで何か変わったことはありませんでしたか?」


私と菜穂は顔を見合わせた。


「なぜそんなことを?」と祖父が尋ねると、警官は少し躊躇った後で答えた。


「実は、遺体の発見場所近くで古い着物が見つかったんです。地元の方によると、それは三十年前に亡くなった旧家の娘さんのものだそうで。どうやら誰かが墓から盗み出したようなんです」


古い着物。案山子の白い布の顔が脳裏に浮かんだ。


その夜、祖父と私は寺に行き、お経をあげてもらった。お坊さんは言った。


「依り代を失った魂は、新しい体を求めてさまよいます。特に不慮の事故で亡くなった方は…」


帰り道、田んぼの畦道を通らざるを得なかった。月明かりに照らされた稲穂の海は、まるで別世界のようだった。


その時、遠くから風の音が聞こえた。いや、それは風ではない。稲穂が揺れる音だ。


「倫子、足元を見なさい」と祖父が囁いた。


見ると、稲穂の間から白い何かが覗いていた。それは人の指のように見えた。


「走るんだ」


祖父の言葉に従って、私たちは走った。背後から、稲穂が揺れる音がどんどん近づいてくる。振り返る勇気はなかった。


家に着くと、祖父は神棚に向かって必死に祈った。その夜、私たちは仏間で一緒に過ごした。窓の外からは、一晩中、稲穂が揺れる音が聞こえてきた。


翌朝、祖父は早くから出かけ、夕方に戻ってきた。彼は隣村のお寺に行き、身元不明だった旅行者のための供養をしてきたという。そして村の古老たちと相談し、新しい案山子を作ったそうだ。


「これで大丈夫だ。あの魂も安らかに眠れるだろう」


その日から、夜の田んぼからの奇妙な音は聞こえなくなった。しかし私は、日没後の田んぼには近づかないようにしている。


夏休みが終わり、私は東京に戻る選択肢もあった。でも、この村に残ることにした。祖父の話には、まだ聞いていない多くの言い伝えがある。そして何より、私はこの村の案山子様の秘密をもっと知りたいと思っている。


今では菜穂と一緒に、村の古い言い伝えを記録する活動を始めた。祖父が言うには、案山子様は敵ではなく、むしろこの村を守る存在なのだという。ただし、その決まりごとを守らなければ…。


時々、夕暮れ時に田んぼの方を見ると、稲穂の間に人影が見えるような気がする。そんな時は必ず、軽く一礼をして通り過ぎるようにしている。


案山子様は見ている。稲の間から、いつも私たちを見守っている。


---


新潟県の山間部に位置する農村で、2016年に実際に起きた不思議な出来事が、この物語のモチーフとなっています。


この地域では、月遅れのお盆である8月中旬から下旬にかけて「案山子送り」という古い風習が残されています。これは先祖の霊を案山子に憑依させ、最終日に川に流すことで供養する意味が込められている。

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