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怖い話  作者: 健二
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「水面下の自画像 ――井の頭池“欠片”取材記」


 井の頭公園の閉園放送が流れた直後、弁天橋の明かりが一本だけ残され、池の面は真墨色に沈んだ。

 私は音響ドキュメンタリー制作者で、深夜の自然音を録るために許可を得ていた。マイクを三脚に固定し、22時48分。風はなく、水面にはほとんど波紋がない。


 この池では一九九四年四月二十三日、二十足のゴミ袋に収められた人体の“欠片”が見つかった。血抜きと洗浄が完璧で、肋骨は一本ずつ外され、指紋が削られていた。頭部と内臓は今も行方不明。警察は水抜き捜査まで行ったが、犯人は捕まっていない。

 私は事件のドキュメンタリーも兼ね、現場で“夜の息づかい”を録りたかった。


 録音は順調に進んだ。ヒヨドリの寝言のような鳴き声、遠くの中央線終電の軋み。しかし0時を回ったころ、ヘッドフォンに“水を撫でる音”が混じった。

 「ちゃぷ、ちゃぷ」

 風はまだない。私はマイクを池面ぎりぎりに下げた。しかし波紋は見えず、音だけが鼓膜をくすぐる。


 やがて今度は紙袋が擦れるような“ガサ”という質感が重なった。私は背筋を正し、ICレコーダの波形を覗く。低く抑えたノイズの山が、まるで息をするように周期を刻んでいる。

 現場写真で見た“あの袋”――スーパーのレジ袋に共通する薄いビニールの摩擦音だ。だが視界には何もない。 


 午前0時32分。橋の下から、ほの白いものが浮上した。拳大の泡がはじけ、丸めた絵の具のパレットのように白い片が沈まない。私は懐中ライトを当てた。

 バス木目の削り屑? いや違う。目測では約六センチ。形は薄い皿、その一端に爪のような弧――。鳥肌が立った。肋骨、だ。


 ライトを切り、後退しかけた私の背で木が鳴った。

 「メリッ」

 老木が折れるような音。振り返ると、マイクスタンドが倒れ、ディフューザーに黒い滴がかかっている。触るとぬるりとした感触で、鉄のような臭いが指先を刺した。“血”に似ているが、事件当夜と同じく酸化の色がまるでない。


 ヘッドフォンの中でパルス音が跳ね上がった。「ピン…ピン…」心拍の逆再生のように高音へ滑る。波形は正弦から矩形になり、ついに人の声を押し出した。

 〈きこえますか〉

 輪郭のない囁き。男女の区別が曖昧で、鼓膜の内側で直接つぶやかれるようだ。

 〈ぼくを しってる〉

 私は反射的にRECボタンを切り、テープに“PL”マークを立てて保存した。が、声は止まない。

 〈みつけたら つぎは あなた〉


 橋の中央に立っていた街灯が、ふっと滲んだ。雨粒かと思った瞬間、足首が冷えた。見ると池の水際から白濁した腕が伸び、私の影を掴んでいる。実体ではないが、影が水面へ引きずり込まれる感覚だけが確かにある。

 私はマイクを棄て、橋を駆けた。頭上の木々が連鎖的に軋み、桜の枝からなめらかな袋がいくつも垂れ下がる。コンビニ袋によく似た半透明。その中で何かが揺れ、互いにぶつかり合って鈍い骨の音を立てた。


 管理事務所の灯りを目指して走る途中、私は奇妙な違和感に気づいた。自分の影が揺れていない。街灯の真下に入っても、足元に黒い輪郭が落ちないのだ。

 影はさっき、水に引きずり込まれたままなのか――?


 事務所の扉を叩くが誰も出ない。窓を覗くと、壁の時計は0時丁度を差したまま止まっていた。私の腕時計は0時49分を指しているのに。

 窓硝子に、自分より半歩遅れて現れる“もう一人の私”が映った。首から下だけで、頭がない。肩口で切断された影が、胸ポケットからICレコーダを取り出し、無い顔に押し当てる。

 〈つぎは あなた〉

 再び声が漏れた。影のレコーダのランプが赤く点滅し、私の胸に同期するかのように鼓動が跳ね返る。


 気付くと、背後の池から低い水音が続いていた。一定間隔で袋が裂け、骨の欠片が桟橋に当たる乾いた音。二十回。事件と同じ袋の数だ。

 最後の一音が鳴った瞬間、断ち切れた影が窓から剥がれ、私の足元へ滑り込んだ。もう逃げられないと思った。


 ところが次の瞬間、遠くでパトロール車の赤色灯がまだらに木立を染めた。警備員が私に駆け寄り、「長居は危ないですよ」と肩を掴む。

 振り返ると、池は静かに闇を湛え、橋の袋も枝の骨も影も消えていた。時計は0時51分。さっき止まっていたはずの事務所の時計も、同じ時刻を進んでいる。 


 私はヘッドフォンを外し、RECランプの消えたレコーダを確かめた。テープ残量は満タンのまま、波形の記録はゼロ。

 それでも右耳の鼓膜の内側で、あの囁きが微かに残響している。

 〈つぎは あなた〉――そして、失った影がどこかで足音を刻んでいる。


 井の頭池は今日も観光客で賑わう。白いボートが水面を掻くたび、生温い波が岸に打ち寄せる。その度に私は靴底を確かめる。湿り気はもうないが、影の輪郭がときどき揺らぐ。

 事件は未解決のままだ。頭部も内臓も戻らない。だが池の底に揺れ続ける影が、犯人か被害者か、あるいは“次”を待つ誰かなのか――それを確かめに行く勇気は、もう私には残っていない。


【引用元】

 ・警視庁公式サイト「未解決事件 平成6年井の頭恩賜公園内バラバラ殺人・死体遺棄事件」

 ・佐藤健太郎『井の頭池の闇を覗く』(祥伝社新書)

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