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怖い話  作者: 健二
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風鈴の音が呼ぶもの


古びた温泉旅館「松乃井」は、山深い温泉街の一角にひっそりと佇んでいた。創業三百年という看板を掲げ、昔ながらの木造建築が夏の陽射しを浴びて、どこか物憂げな雰囲気を漂わせている。


高校二年の僕、佐藤誠は、家族四人での夏休み旅行でこの旅館を訪れていた。母が雑誌で見つけたという「縁結びの湯」が有名な旅館で、姉の恋愛成就を願う母の思惑もあっての選択だった。


「まるで時間が止まったみたいな旅館だね」


チェックインを済ませ、廊下を歩きながら僕はつぶやいた。廊下の天井から吊るされた色とりどりの風鈴が、微かな風に揺られてチリンチリンと涼やかな音を奏でている。


「風鈴の音は、幽霊を寄せ付けないためのものだったんですよ」


突然背後から聞こえた声に、僕は驚いて振り返った。そこには年老いた女将が立っていた。


「江戸時代から伝わる風習です。風鈴の音色は魔除けの力があると言われてきました。特にこの旅館では、夏になると毎年百個の風鈴を吊るす習わしがあるんですよ」


女将の説明を聞いて、姉は「え~、怖い話はやめてよ~」と顔をしかめた。一方、僕は昔からこういった不思議な話が好きだったので、興味津々で尋ねた。


「この旅館には何か怖い言い伝えでもあるんですか?」


女将は少し困ったような表情をした後、小声で答えた。


「本館の奥にある『月見の間』には、近寄らない方がいいでしょう。使っていない部屋ですから」


その夜、家族で温泉に入り、豪華な夕食を楽しんだ後、僕は女将の言葉が気になって眠れなくなった。家族が寝静まった頃、そっと布団から抜け出し、廊下に出た。


夜の旅館は昼間とは全く違う顔を持っていた。廊下の行灯の明かりだけが、薄暗い空間を照らしている。風鈴の音も、夜になるとどこか物悲しく響いていた。


好奇心に駆られた僕は、女将が言っていた「月見の間」を探して旅館内を歩き始めた。古い廊下を進むと、本館の最も奥まった場所に、使われていない様子の一室を見つけた。襖には「月見の間」と書かれた札が掛かっている。


「ここか…」


恐る恐る襖に手をかけた瞬間、どこからともなく冷たい風が吹き、風鈴の音が一斉に高まった。しかし不思議なことに、その風は僕の背中を「月見の間」に向かって押しているようだった。


覚悟を決めて襖を開けると、そこには予想外の光景が広がっていた。部屋は意外にも綺麗に保たれ、大きな窓からは満月の光が差し込み、畳を銀色に染めている。部屋の中央には、一人の女性が座っていた。


長い黒髪を持ち、古風な浴衣を着た若い女性。月光に照らされた彼女の姿は半透明で、どこか儚げだった。


驚いて後ずさりしようとした僕に、女性は静かに微笑みかけた。


「待って、怖がらないで。あなたは私の声が聞こえるのね」


震える声で僕は答えた。「あなたは…幽霊なの?」


女性は悲しそうな表情で頷いた。


「私の名前は澪。大正時代に、この旅館に滞在していた女です」


澪の話によれば、彼女は大正時代、婚約者と共にこの旅館を訪れたという。その部屋こそが「月見の間」だった。しかし婚約者は別の女性と密会するために彼女をおいて出かけ、その夜、嵐の中で事故に遭って亡くなってしまった。


真実を知った澪は絶望し、この部屋で自ら命を絶ったという。


「それから私は、この部屋に縛られているの。毎年夏になると、私の想いは強くなり、時には宿泊客の前に姿を現すこともあるわ」


「どうして僕の前に現れたの?」


澪は窓の外を見つめながら答えた。


「あなたの中に、私と似た何かを感じたから。あなたも誰かを失ったことがあるのでは?」


その言葉に、僕は息を呑んだ。確かに僕は、中学時代に親友を事故で亡くしていた。その記憶は今も僕の心に深い傷を残している。


「どうすれば、あなたは成仏できるの?」


澪は悲しそうに首を振った。


「私を縛っているのは、裏切られた悲しみと怒りの想い。それを手放せないの」


その時、部屋の外から風鈴の音が大きく響いた。澪は驚いたように顔を上げ、「もう行かなきゃ。夜明けが近いわ」と言った。


次の瞬間、彼女の姿は月明かりと共に薄れていった。


翌朝、僕は女将に「月見の間」のことを尋ねた。女将は驚いた表情を見せた後、静かに語り始めた。


「そうですか、あなたも澪さんに会われたのですね」


女将の話では、澪の悲劇は実際にあった出来事で、それ以来「月見の間」は宿泊に使われなくなったという。しかし、時々若い客が澪の姿を目撃することがあり、特に失恋や別れを経験した人が彼女の姿を見るという。


「でも不思議なことに、澪さんに会った人は、心の傷が癒されることが多いのです」


その日、僕たちは観光に出かけたが、僕の心は澪のことでいっぱいだった。夕方、一人で旅館に戻った僕は、再び「月見の間」を訪れた。


夕暮れ時の部屋は昨夜とは違う雰囲気だった。窓からは夕日が差し込み、部屋全体が赤く染まっている。澪の姿はなかったが、部屋の隅に古びた箱を見つけた。


好奇心から箱を開けると、中には古い手紙と写真が入っていた。手紙を読むと、それは澪の婚約者が彼女に宛てたもので、実は彼は澪を裏切っていたわけではなく、彼女への結婚指輪を買いに出かけていたことが書かれていた。そして写真には、幸せそうに笑う若い二人の姿が写っていた。


「澪さん、真実はこれだったんだ」


僕がつぶやいた瞬間、部屋の空気が変わった。窓から入る夕日の光の中に、澪の姿が浮かび上がった。


「これが…本当のことなの?」


僕は頷き、手紙の内容を伝えた。澪の顔に涙が流れた。


「私は何十年も、彼を憎んでいたの。でも彼は最後まで私を愛していたのね」


澪の体が次第に光り始め、彼女は穏やかな表情で僕に微笑んだ。


「ありがとう。あなたのおかげで、私は長い間抱えていた怒りから解放されたわ」


「僕こそありがとう。親友を失った時から、ずっと前に進めなかった。でも、彼も僕のことを気にかけていてくれたんだと思えるようになったよ」


澪は最後に優しく微笑み、「さようなら」とつぶやくと、夕日の光と共に消えていった。


その晩、夕食時に女将が興奮した様子で僕たちのテーブルに駆け寄ってきた。


「不思議なことが起きたんです。『月見の間』の風鈴が、突然美しい音色を奏でたんです。そして…」


女将の話によれば、何十年も閉ざされていた「月見の間」の窓が、誰かの手で開けられていたという。そして窓辺には、新鮮な月見草の花が一輪、活けられていたのだという。


「昔から言い伝えがあるんです。『月見の間』の呪いが解けると、月見草が咲くと…」


その夜、旅館中の風鈴が特別美しい音色を奏でたという。まるで誰かの魂が自由になったことを祝福しているかのように。


翌日、僕たちは旅館を後にした。帰り際、女将は僕に小さな風鈴を手渡した。


「これは『月見の間』に吊るされていたものです。澪さんがあなたに託したかったのでしょう」


それから何年経った今でも、夏になると僕は窓辺にその風鈴を吊るす。風に揺られて鳴る澄んだ音色は、遠い記憶と共に、何か大切なものを思い出させてくれる。


---


日本各地の古い温泉旅館には類似した言い伝えが実在します。


2010年、長野県の老舗温泉旅館で行われた建て替え工事の際、明治時代から封印されていた一室から、古い手紙と写真が発見されました。その部屋は「月の間」と呼ばれ、地元では心中した男女の霊が宿ると言われていました。発見された手紙は、若い女性が婚約者に宛てたもので、「必ず戻ってくる」という約束の言葉が記されていたそうです。


また、2016年には秋田県の温泉地で奇妙な現象が報告されています。ある古い旅館の使われていない客室で、夏の間だけ風鈴の音が聞こえるという現象が起きました。不思議に思った従業員が調査したところ、その部屋には風鈴が吊るされていないにもかかわらず、確かに風鈴の音が聞こえたそうです。

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