帰らざる灯籠
夏休みの始まり、僕は母方の祖父母が住む九州の小さな漁村を訪れていた。東京で育った僕にとって、潮の香りが漂うこの村は、毎年夏になると懐かしさと共に何か言葉にできない不安を呼び起こす場所だった。
「航太、久しぶりだね。高校生になって、ますます父親に似てきたよ」
玄関に立つ祖母の顔には、いつものように優しい笑顔が浮かんでいた。しかし、その目の奥に何か悲しげなものを感じたのは、僕だけだろうか。
「おばあちゃん、元気にしてた?」
「ええ、おじいちゃんも元気よ。今、浜から帰ってくるところ」
僕が小学生の頃に父を亡くして以来、母と僕は毎年夏になるとこの村を訪れる習慣がついていた。母は仕事の都合で今年は遅れて来るという。
その夜、夕食の席で祖父が切り出した。
「航太、今年は精霊流しの手伝いをしてくれないか」
精霊流しとは、お盆の最終日に先祖の霊を送り出すために、灯籠を海に流す伝統行事だ。この村では特に盛大に行われ、村人たちは手作りの灯籠を夕暮れ時に海へと流す。
「もちろんいいよ。でも、僕にできること?」
祖父は真剣な顔で言った。「お前はもう十七だろう。大人の仲間入りだ。今年から、灯籠を作る側に回ってほしい」
翌日から、僕は祖父と共に灯籠作りを始めた。藁や竹、和紙を使い、一つ一つ丁寧に作っていく。村の公民館には、他の村人たちも集まっていた。
「これは故人の名前を書く札じゃ」
祖父は小さな木の札を僕に渡した。そこには既に「佐藤誠」と書かれていた。僕の父の名前だ。
「父さんの…」
「ああ。毎年、誠の灯籠は特別に作っている。今年はお前が作るんだ」
作業をしながら、祖父は村の言い伝えを話してくれた。この村では、精霊流しは単なる風習ではなく、実際に死者の魂を送り出す重要な儀式だという。灯籠が海に消えるまで見届けなければ、霊は迷って村に留まり、不幸をもたらすと信じられていた。
「特に、若くして亡くなった者の霊は強い未練を持っている。だから、きちんと送り出さねばならんのだ」
その言葉に、僕は妙な違和感を覚えた。父は十年前、この村の近くの海で突然の事故に遭って亡くなったのだ。当時小学二年生だった僕には、詳しい状況は知らされなかった。
灯籠作りを終えた夕方、僕は海岸へ散歩に出かけた。夕日が海面を赤く染め、波の音だけが響く静かな浜辺。ふと足元に何かが落ちているのに気づいた。
拾い上げてみると、それは古びた木の札だった。「佐藤誠」と書かれている。父の名前の札。でも、これは今作ったものとは違う、古いものだ。
「どうしてこんなところに…」
不思議に思いながら浜辺を歩いていると、遠くに人影を見つけた。波打ち際に立つ一人の男性。夕日に照らされたその後ろ姿は、どこか見覚えがある。
「お父さん…?」
思わず声に出した僕の言葉は、潮風に攫われていった。男性はゆっくりと振り返り、僕を見た。確かに父の顔だった。しかし次の瞬間、大きな波が打ち寄せ、その姿は消えていた。
動揺して家に戻ると、祖母が心配そうに迎えてくれた。
「どうしたの?顔色が悪いわよ」
僕は見たものを正直に話した。祖母の顔から血の気が引いた。
「そんな…航太、その札を見せてくれる?」
僕が拾った札を見た祖母は、震える手で口を覆った。
「これは十年前の…どうして浜辺に…」
その夜、祖父と祖母は真剣な表情で僕に向き合った。
「航太、実は言わなければならないことがある」
祖父の話によれば、父の死は単なる事故ではなかった。父は母と結婚する前、この村の娘・美咲と婚約していた。しかし都会から来た母と出会い、美咲との婚約を破棄したのだという。
「美咲は悲しみのあまり、自ら海に身を投げた。その一週間後、お前の父も同じ海で命を落とした」
祖父の言葉に、僕は言葉を失った。
「村では、美咲の怨念が父を海に引きずり込んだと噂された。それ以来、毎年の精霊流しで二人の灯籠を一緒に流し、成仏を祈ってきたんだ」
「でも、なぜ今になって…」
「去年、美咲の両親が村を出て行った。彼らが毎年作っていた美咲の灯籠が、今年は作られない」
祖母が続けた。「だから、航太にも真実を知ってほしかったの。あなたが美咲の灯籠も作って、二人を一緒に送ってあげてほしいの」
次の日、僕は新たに「山下美咲」という名の札を作り、もう一つの灯籠を完成させた。
お盆の最終日、夕暮れ時に村人たちが海岸に集まった。一人一人が思い思いの灯籠に火を灯し、波間に流していく。僕も父と美咲の二つの灯籠を抱え、波打ち際に立った。
その時だった。急に辺りの空気が冷たくなり、海からの風が強まった。波間に、白い着物を着た女性が立っているように見えた。その隣には、父の姿も。
恐怖で足がすくむ僕に、祖父が静かに言った。
「怖がることはない。ただ、二人を送り出すんだ」
震える手で灯籠に火を灯し、二つ並べて海に流した。灯籠は波に揺られながら、徐々に沖へと流れていく。波間の二人の姿も、灯籠と共に遠ざかっていった。
最後に、父が振り返り、僕に微笑みかけたように見えた。
灯籠が視界から消えると同時に、突然の雨が降り始めた。村人たちは急いで家路につき、僕も祖父母と共に帰宅した。
その夜、僕は不思議な夢を見た。父と美咲が手を繋ぎ、明るい光の中へ歩いていく夢だ。父は振り返り、「ありがとう」と言った。
翌朝、目覚めると窓の外は晴れ渡っていた。何かが変わったように感じる。祖母の顔にも、初めて会った時には見えなかった安らぎがあった。
「おばあちゃん、父さんのこと、もっと教えてくれる?」
祖母は優しく微笑んだ。「ええ、もちろん。今日は写真アルバムを見ましょうか」
その日から、僕は父と母の出会いや、父の若かりし日の話をたくさん聞いた。父の人生の一部だった美咲のことも、祖母は包み隠さず話してくれた。
夏休みの終わり、東京に戻る前日、僕は再び海岸を訪れた。もう幻影は現れず、ただ穏やかな波の音だけが響いていた。
「お父さん、美咲さん、安らかに眠ってください」
僕の言葉は、夏の潮風に乗って海へと運ばれていった。
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日本各地の沿岸部では精霊流し(灯籠流し)の風習があり、それにまつわる不思議な体験談が数多く報告されています。
2008年、長崎県の小さな漁村で行われた調査で、興味深い証言が記録されました。精霊流しの最中に、海上に人影が見えたという目撃例が複数あったのです。特に印象的なのは、地元の高校生が撮影した写真に、灯籠の後ろに薄い人影が写っていたという事例です。写真分析の専門家も「光の反射だけでは説明できない現象」と述べています。
また、2015年には福岡県の海岸で奇妙な現象が報告されました。精霊流しの翌日、前夜に流したはずの灯籠が、元の場所に戻っていたというのです。地元の古老によれば、「魂が成仏できず、この世に未練を残している証拠」だと言われています。
興味深いことに、2019年の民俗学研究では、灯籠流しの伝統が残る地域では「先祖の霊と対話できた」と感じる人が統計的に多いという結果が出ています。科学的には説明困難ですが、日本人の死生観と自然信仰が融合した精霊流しには、現代でも私たちの理解を超えた何かが宿っているのかもしれません。
特に夏の終わりに行われるこの風習は、あの世とこの世の境界が薄くなるとされる時期に、大切な人との別れと再会を象徴する儀式として、今も多くの地域で大切に守られています。