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怖い話  作者: 健二
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天水の約束


真夏の陽光が照りつける田園地帯。僕が祖父の家がある農村を訪れたのは、高校二年の夏休み初日のことだった。東京での生活に疲れた僕は、田舎での静かな時間を過ごすために、一人で祖父の元を訪れていた。


「孝太、久しぶりだな。すっかり大きくなったな」


日焼けした顔に深いしわを刻んだ祖父は、相変わらず頑固そうな顔つきで僕を迎えた。祖父の家は集落の外れにあり、周囲を田んぼに囲まれた古い農家だった。


その日の夕食時、祖父は不思議な話を始めた。


「今年は雨が少なくてな。このままじゃ稲が育たん」


確かに、窓の外に広がる田んぼの稲は、いつもより色が悪そうに見えた。


「昔は、こんな時には『天水祭』というものをやったんだ」


祖父によれば、この村では旱魃の時に、村人たちが集まって雨乞いの儀式を行っていたという。その中心となるのが「天水塚」と呼ばれる小さな祠で、そこには水の神様が祀られていた。


「でも今はもう、誰もそんな儀式をする者はいない。若い者は都会に出て行き、残った老人たちも科学を信じる時代だからな」


祖父の声には、何か後悔のようなものが混じっていた。


「その天水塚って、今もあるの?」


「ああ、西の田んぼの真ん中にな。でも近づかん方がいい。最近、変なことが起きているんだ」


祖父の話によれば、この一ヶ月、村では不思議な出来事が続いていた。夜になると田んぼから奇妙な音が聞こえる。青白い光が揺らめくのを見た人もいる。そして最も不気味なのは、村の若者が二人、田んぼの近くで意識を失い、その後「水の音が聞こえた」と言い続けるようになったことだった。


「迷信だと笑うな。この村には、古くから言い伝えがある。天水塚の神様を怒らせると、天罰が下るとな」


祖父の真剣な表情に、冗談を言っているようには見えなかった。


その夜、僕は眠れずにいた。窓の外から聞こえる虫の声と、遠くの田んぼからかすかに響く水の音。好奇心に駆られた僕は、懐中電灯を手に取り、こっそりと家を抜け出した。


月明かりに照らされた田んぼの道を歩く。夏の夜とは思えないほど、空気が冷たく感じた。西の田んぼに向かって歩くうち、次第に水の音が大きくなってきた。それは川のせせらぎのような、穏やかでありながらどこか不気味な音だった。


やがて視界に入ってきたのは、田んぼの真ん中にぽつんと立つ小さな祠。「天水塚」だ。


近づくにつれ、異様な雰囲気を感じた。祠の周りだけ、稲が青々と茂っているのだ。旱魃のはずなのに、この一帯だけは潤いに満ちていた。


恐る恐る祠の前に立つと、中には古びた石の像が祀られていた。人の形をしているようにも見えるが、長年の風雨で形が崩れ、はっきりとは分からない。


「水が…欲しいのか…」


突然、頭の中に声が響いた。僕は驚いて周囲を見回したが、誰もいない。


「水を…よこせ…」


再び聞こえた声に、恐怖が背筋を走った。逃げ出そうとした瞬間、足元から水が湧き出してきた。泥水ではなく、透明でありながらどこか青みがかった水。それは僕の足首を包み込み、じわじわと上へと這い上がってくる。


「やめて!」


叫んだ声も虚しく、水は膝まで達した。そのとき、不思議なことに恐怖が消えた。代わりに心を満たしたのは、言いようのない懐かしさと安らぎ。水の中に身を委ねたい衝動に駆られる。


「そうだ…水に帰るんだ…」


頭の中の声に従おうとした瞬間、遠くから聞こえた叫び声が僕を現実に引き戻した。


「孝太!そこから離れろ!」


祖父の声だった。老いた体に似合わぬ速さで祖父が駆けてくる。彼の手には何かの壺が握られていた。


「神様、どうかお許しください!」


祖父は壺の中身を天水塚にかけた。それは米と塩、そして清らかな水のようだった。


「我々が儀式を怠ったのは、我々の過ちです。どうか子供を許してください!」


祖父の叫びと同時に、僕を取り囲んでいた水が引いていった。足元はいつの間にか乾いた地面に戻っていた。


祖父は震える手で僕を抱きしめた。


「大丈夫か?何も聞こえないか?」


「水の…声が聞こえた。でも今は…」


祖父の顔に安堵の表情が浮かんだ。


家に戻った後、祖父は全てを話してくれた。この村には古くから「天水の神」が祀られ、豊作と水の恵みをもたらしてきた。その代わりに、村人たちは定期的に儀式を行い、神に感謝を捧げてきた。しかし、現代化と共に儀式は簡略化され、やがて完全に忘れられた。


「その結果が、今の旱魃と怪異現象なんだ」


祖父の説明によれば、神は水を司るがゆえに、時に人間の生命を水の形で奪うこともあるという。昔から村では数年に一度、若者が行方不明になる事件があり、後に田んぼで水死体となって発見されることもあった。


「村では、それを『天水の神の花嫁』と呼んでいた。神が人間の命を要求するという恐ろしい言い伝えだ」


僕は震える声で尋ねた。「じゃあ、僕も…」


祖父は苦しそうな顔で頷いた。


「おそらくな。神は新しい花嫁を求めていたのだろう。だが幸い、間に合った」


翌日、祖父は村の長老たちを集め、「天水祭」を復活させることを提案した。長老たちは最初は懐疑的だったが、最近の怪異現象を考えると、試してみる価値はあると同意した。


数日後、村人たちが集まり、久しぶりに「天水祭」が行われた。古い祭具が倉庫から出され、祖父を中心に儀式が執り行われた。米と塩、清水を供え、古い祝詞が唱えられる。


儀式の最中、不思議なことが起きた。快晴だった空に、突然雲が湧き上がり、やがて大粒の雨が降り始めたのだ。村人たちは歓声を上げ、中には涙を流す年配者もいた。


雨は三日三晩降り続け、旱魃は終わった。田んぼの稲は見る見るうちに生き返り、村には活気が戻った。


それから一週間後、祖父と僕は再び天水塚を訪れた。祠はきれいに清掃され、新しい供物が供えられていた。


「神様、ありがとうございます」


祖父が祈りを捧げる横で、僕も手を合わせた。その瞬間、かすかに水の音が聞こえた気がした。でも今度は、恐ろしい声ではなく、穏やかな流れの音だった。


「水の神様は、敬意を示せば応えてくれる。だが、忘れれば恐ろしい怒りを示す。自然の力とはそういうものだ」


祖父の言葉は、都会育ちの僕には新鮮だった。自然と共に生きること、神々を敬うこと。それは僕が東京では決して学べなかった知恵だった。


夏休みが終わり、東京に戻る前日、僕は一人で天水塚を訪れた。祠の前に立ち、静かに語りかけた。


「また来年、来ます。約束します」


風が吹き、稲穂がさらさらと音を立てた。それは神様の返事のようにも思えた。


---


日本各地の農村地域には、水神信仰や田の神にまつわる不思議な言い伝えが実在します。


2012年、新潟県の山間部にある小さな農村で興味深い調査が行われました。この地域では、「水神様」を祀る古い祠があり、長年忘れられていたものの、異常な旱魃が続いた2010年に村人たちが儀式を復活させたという事例が記録されています。儀式の後に実際に雨が降り出したことから、地元では「水神様の力」として語り継がれています。


また、2016年には茨城県の田園地帯で不可解な現象が報告されました。夏の夜、田んぼの中から青白い光が立ち上るのを複数の住民が目撃したのです。調査の結果、その場所は古くから「水の祠」があった場所で、数十年前に撤去されていました。地元の古老によれば、「祠を壊したために水の神が怒っている」という言い伝えがあったといいます。


さらに、2019年の民俗学研究では、田の神や水神を祀る風習が残る地域と、農業の豊凶の関係を調査した結果、統計的に興味深い相関関係が見られたという報告もあります。科学的な因果関係は明らかではないものの、自然を敬い、神々と共に生きる日本の伝統的な価値観は、現代においても何らかの形で機能しているのかもしれません。


日本の稲作文化と共に育まれてきた水神信仰は、便利な現代生活の中で忘れられがちですが、今なお農村地域では大切に守られています。自然の恵みと脅威の両面を知る先人たちの知恵は、環境問題が深刻化する現代においても、重要なメッセージを私たちに伝え続けているのです。

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