帰らざる森の入り口
「神隠しって、本当にあると思う?」
高校二年の夏休み、僕たち五人は山に囲まれた小さな町にある鳴沢先輩の実家に集まっていた。東京から特急で三時間、さらにローカル線を乗り継いで辿り着いたこの町は、古い神社と豊かな自然に囲まれた静かな場所だった。
「まさか信じてないだろ?」友人の健太が笑い飛ばす。「でも、この辺りじゃ有名な話らしいぜ」
鳴沢先輩は大学一年生で、僕たち高校のバスケ部の先輩だった。彼の実家で合宿をする計画は、新チームになって初めての夏休みを前に立てられたものだ。
「実は…」鳴沢先輩が真剣な顔で切り出した。「この町には『四方森』って呼ばれる森があってね。そこに入った人が時々行方不明になるんだ。特に夏の満月の夜にね」
窓の外では夕暮れの空が赤く染まり、その光が部屋に差し込んでいた。
「昔から『山の神様に攫われる』って言われてるんだ。だから地元の人は夜になると絶対に近づかない」
「じゃあ、行ってみようぜ!」健太が目を輝かせる。「肝試しみたいで面白そう」
「やめておいた方がいいよ」鳴沢先輩の表情は冗談を言っているようには見えなかった。「十年前、僕のいとこが友達と肝試しに行ったきり、友達だけが戻って来なかったんだ」
一瞬、部屋が静まり返った。
「でも、そういうのって普通に遭難とかじゃないの?」チームのキャプテン・山田が理性的な意見を出す。
「遺体も見つからなかったんだ。警察も散々捜索したけど…」
その夜、部屋に敷かれた布団の上で僕は眠れずにいた。窓から見える満月が、異様に大きく明るく感じられる。
「高橋、起きてる?」健太の声が暗闇から聞こえた。「実は、さっきこっそり四方森の地図を見つけたんだ。先輩の部屋から」
「え?何考えてるんだよ」僕は驚いて身を起こした。
「だって面白そうじゃん。みんな寝静まったら、ちょっと行ってみない?入り口だけでもさ」
断ろうとしたが、健太の熱意に押され、結局僕たち二人は真夜中に家を抜け出した。星明かりと健太のスマホの光を頼りに、地図に従って歩き始める。
町外れの小道を抜けると、目の前に暗い森が広がっていた。入り口には小さな鳥居が立ち、苔むした石碑には「四方森神域」と刻まれている。
「本当に入るの?」僕は躊躇した。
「入り口だけ。すぐ戻ろう」
鳥居をくぐると、森の中は想像以上に静かだった。虫の声も風の音も聞こえない。月明かりが木々の間から差し込み、幻想的な光景を作り出している。
「なんか変な感じだな…」健太もさすがに緊張した様子で呟いた。
その時だった。遠くから鈴の音が聞こえてきた。チリンチリンという、澄んだ音色。
「誰かいるのか?」
好奇心に駆られた僕たちは、音の方向へ歩き始めた。木々の間を抜けると、小さな空き地に出た。そこには一人の少女が立っていた。
白い浴衣を着た少女は、十二、三歳くらいに見える。長い黒髪が風もないのに揺れている。手には小さな鈴を持ち、それをゆっくりと鳴らしていた。
「あの、君は…」健太が声をかけると、少女はこちらを振り向いた。
月明かりに照らされた少女の顔には、目も鼻も口もなかった。
恐怖で固まる僕たちの前で、少女の体が徐々に透明になっていく。そして完全に消えた瞬間、森全体が揺れ動いた。
「逃げるぞ!」
僕たちは来た道を必死で引き返した。しかし、どれだけ走っても鳥居は見つからない。やがて健太が立ち止まった。
「おかしい…もうとっくに出られているはずだ」
周囲を見回すと、さっきまで確かにあった月明かりが消えていた。代わりに、木々の間から青白い光が見える。
「あれは…」
光の方へ歩いていくと、そこには小さな祠があった。祠の前には先ほどの少女が座り、今度は顔がはっきりと見えた。美しいが、どこか人間離れした表情。
「よく来たね、都会の子」
少女の声は、風のように僕たちの頭の中に直接響いた。
「あなたは誰?」恐怖を押し殺して僕は尋ねた。
「この森の守り神よ。人間たちは私を『山姫』と呼んでいるわ」
少女—山姫は微笑んだ。その笑顔は美しいのに、どこか冷たさを感じさせた。
「僕たちを帰してください」健太が震える声で言った。
「帰りたいの?でも、この森に入った者は代償を払わなければならないの」
「代償?」
「そう。あなたたちの中の一人を、この森にいただくわ」
冷たい汗が背筋を伝う。山姫の言葉に、僕は本能的な恐怖を感じた。
「冗談じゃない!僕たちは両方帰るんだ!」健太が叫んだ。
山姫は悲しそうな表情を浮かべた。「昔から決まりよ。特に満月の夜に入った者はね」
そう言うと、山姫は立ち上がり、僕たちに近づいてきた。
「選びなさい。どちらが残るか」
健太と顔を見合わせる。こんな選択、できるはずがない。
「待ってください」僕は必死に考えた。「もし、私たちが何か別のものを差し出したら?」
山姫は首を傾げた。「何を?」
ポケットを探ると、母から持たされたお守りが出てきた。古い神社のもので、代々家族で大切にしてきたものだという。
「これは…」
山姫の目が輝いた。「これは鎮守様のお守り。懐かしいわ」
彼女はそっとお守りに触れ、瞬間的に強い光が辺りを包んだ。
「わかったわ。今回は特別に許してあげる。でも二度と来ないで。次は必ず一人もらうからね」
目が眩んだ瞬間、僕たちの意識は途切れた。
気がつくと、僕たちは四方森の入り口の鳥居の前に倒れていた。夜明けの光が森を照らし始めている。
「何が…あったんだ?」健太が呟いた。
お守りは消えていたが、ポケットには小さな鈴が入っていた。
急いで鳴沢先輩の家に戻ると、みんなはまだ眠っていた。二人で顔を見合わせ、この出来事は誰にも話さないことに決めた。
朝食時、鳴沢先輩が不思議そうな顔で僕を見た。
「高橋、その鈴どこで手に入れたの?」
思わずポケットの鈴を取り出すと、先輩の顔が青ざめた。
「それ、十年前にいとこが持っていたのと同じだ…」
その日の午後、僕たちは地元の古老を訪ねた。先輩の紹介で会えた九十歳を超える老人は、四方森の伝説に詳しいという。
「山姫様は、この土地の守り神じゃ。昔から人間の魂を要求してきた。特に若い者の魂を好むと言われておる」
老人によれば、かつては定期的に「御神籤」という儀式で選ばれた若者を森に送り込み、山姫に捧げていたという。しかしその風習は明治時代に禁止され、以来、山姫は自ら人間を誘い込むようになったとのことだ。
「しかし、山姫様が気に入った品物を捧げれば、命は助けられることもある。お前さんは運が良かったのう」
帰り道、健太は重い口を開いた。
「実は…あの森で別のことも見たんだ」
健太の話によれば、山姫が僕のお守りに触れた瞬間、森の奥に無数の人影が見えたという。様々な時代の服装をした人々が、木々の間をさまよっているように見えたと。
「きっと、山姫に攫われた人たちだよ」
その夏が終わり、東京に戻る日。僕たちは駅のホームで鳴沢先輩に見送られていた。
「高橋、その鈴は大切にしておけよ。山姫様からの贈り物なんだから」
電車に乗り込む直前、ふと森の方を見ると、遠くの木々の間に白い影が見えた気がした。
あれから何年も経った今でも、夏になると僕はあの鈴の音を夢に聞くことがある。そして目覚めると、枕元にはいつもその鈴が置かれている。誰かに見守られているような、そして同時に見張られているような、不思議な感覚と共に。
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この物語に関連する実際の出来事として、2011年に長野県の山間部で行われた民俗学調査があります。この調査では、地元に伝わる「山の神に攫われた少女」の伝説を調べていた研究者が、不思議な体験をしたと報告しています。
彼らが伝説の舞台となった森で調査を行っていた際、天候が急変し、濃霧に包まれたのです。その中で研究チームの一人が、白い着物を着た少女の姿を目撃。少女は鈴を持っており、研究者を森の奥へと誘うように見えたといいます。他のメンバーには見えなかったその少女を追いかけた研究者は、数時間後に別の場所で発見されました。彼は記憶を失っており、ポケットからは古い鈴が見つかりました。
また、2016年には青森県の山中で遭難した高校生のグループが救助された際、彼らは「白装束の女性に導かれて避難所を見つけた」と証言しています。不思議なことに、彼らが避難したという場所には、古くから使われていない山の神を祀る祠があり、地元では「山姫の祠」と呼ばれていたそうです。
日本の山々には古来より様々な神々が宿ると信じられてきました。