海の声が聞こえる
真夏の太陽が照りつける白い砂浜。高校二年の沢田明日香は、クラスメイトたちと一緒に海水浴を楽しんでいた。この小さな漁村は、明日香の母方の祖母が住む場所で、夏休みを利用して友人たちを招いたのだ。
「明日香、おばあちゃんの家から近いこの海って、すごく綺麗だね!」
友人の由美が波打ち際で声をあげた。確かにこの入江は、観光客もまばらで、透き通った青い海が広がっていた。
「でもなんで、こんな綺麗な場所なのに人が少ないんだろう?」
もう一人の友人・健太が不思議そうに尋ねる。明日香は少し考え込むように海を見つめた。
「実は…この海には『人食い入江』っていう別名があるんだ」
「え、怖い!なんでそんな名前が?」
明日香は砂浜に腰を下ろし、祖母から聞いた話を始めた。
「この村では、十年に一度、海の神様への供物として一人の若者が海に沈むという言い伝えがあるんだ。特に『人魚岩』と呼ばれるあの岩の近くでね」
明日香が指さした先には、入江の端に人魚の形に似た大きな岩が海面から突き出ていた。
「それって本当なの?」
由美が怖がる顔をすると、健太は笑った。
「迷信だよ、そんなの。今どき海の神様なんて信じる人いないでしょ」
しかし明日香は真剣な表情で続けた。
「でも祖母が言うには、十年前の今日、この海で高校生の男の子が溺れて死んだんだって。その子は泳ぎが得意だったのに、突然沈んだらしい。そして今年で十年目…」
一瞬、沈黙が流れた。それを破ったのは健太の大きな笑い声だった。
「怖がらせようとしてるだけでしょ?よーし、じゃあ証明してやる。俺、あの人魚岩まで泳いでくるよ!」
「やめなよ、健太!」
明日香が止めるのも聞かず、健太は海へと走っていった。泳ぎの得意な彼は、すいすいと人魚岩に向かって泳ぎ始めた。
由美と明日香は浜辺から彼を見守る。最初は順調に泳いでいた健太だったが、岩の近くまで来たとき、突然もがき始めた。
「助けて!」
かすかに聞こえる健太の叫び声。明日香は咄嗟に海へと飛び込んだ。幼い頃からこの海で泳いできた彼女は、すぐに健太のもとへたどり着いた。
「つかまって!」
何とか健太を引っ張り、二人は浜辺に戻った。
「どうしたの?急に溺れそうになって」
健太は顔を青ざめさせながら答えた。
「わからない…足が何かに掴まれたような…そして、女の人の声が聞こえたんだ。『一緒に来て』って…」
その晩、祖母の家に泊まった三人は、健太の体験について話し合っていた。
「気のせいだよ、きっと」
由美がそう言っても、健太は納得しない様子だった。
「本当に何かがいたんだ。俺の足を掴んで、海の底へ引きずり込もうとした」
その時、部屋のドアが開き、明日香の祖母が入ってきた。
「あなたたち、今日人魚岩に近づいたの?」
健太の体験を聞いた祖母は、重い口調で話し始めた。
「あの岩には、『海の花嫁』と呼ばれる女の霊が住んでいるのよ。昔、村の漁師と恋に落ちた都会の女性がいたわ。でも村人たちは彼女を受け入れず、彼女は入江で身を投げたの。それ以来、十年に一度、彼女は新しい伴侶を求めて若者を海に引きずり込むと言われているの」
祖母の話を聞いて、由美は怯えた様子だったが、健太は半信半疑の表情を浮かべていた。
「それでね」祖母は続けた。「彼女が現れる前には、必ず前兆があるの。海から聞こえる女性の歌声、そして満月の夜に人魚岩の上に現れる長い黒髪の女性の姿…」
「それって、今夜が満月じゃない?」由美が震える声で言った。
窓の外を見ると、確かに大きな満月が海を照らしていた。
「今夜は絶対に海に近づかないこと」祖母は厳しく言った。「特にあなた」と健太を指さして。
夜中、明日香は奇妙な歌声で目を覚ました。窓の外から聞こえてくる、切なく美しい旋律。まるで誰かが海から呼びかけているようだった。
ベッドから起き上がり、窓の外を見ると、月明かりに照らされた浜辺に一つの人影があった。髪を長く伸ばした女性のようだ。その姿はゆっくりと海へと向かい、波の中に消えていった。
「あれは…」
不安になった明日香は、友人たちの様子を確認しようと隣の部屋へ向かった。由美は熟睡していたが、健太のベッドは空だった。
「まさか!」
明日香は急いで浜辺へと走った。月明かりの下、人魚岩の方へと泳いでいく人影が見える。健太だ。
「健太!戻って!」
明日香の叫び声も届かないほど、彼は既に沖へと出ていた。迷わず海に飛び込み、必死に健太を追いかける明日香。
健太が人魚岩に到達したとき、岩の上に一人の女性が現れた。長い黒髪を風になびかせ、白い着物をまとった美しい女性。彼女は手を差し伸べ、健太を招いているようだった。
「健太、だめ!」
明日香が必死に叫ぶも、健太は女性に向かって手を伸ばした。その瞬間、波が高く盛り上がり、二人の姿を飲み込んだ。
明日香が必死に人魚岩まで泳ぎ着くと、岩の上には健太が一人で横たわっていた。女性の姿はどこにもない。
「健太!大丈夫?」
かろうじて意識のある健太は、混乱した様子で明日香を見つめた。
「彼女は…僕を招いた…でも、君の声が聞こえて…」
二人が浜辺に戻ると、祖母が提灯を持って立っていた。
「無事で良かった。あの方は、心に迷いのある者だけを連れていくのよ」
翌朝、健太は昨夜の出来事をはっきりと覚えていなかった。しかし明日香は、海から聞こえた歌声と、人魚岩の上に立っていた女性の姿を鮮明に記憶していた。
帰りの日、明日香は一人で浜辺を訪れた。潮が引いた砂浜で、彼女は小さな貝殻を見つけた。それは通常のものとは違い、真珠のように輝く美しい貝だった。
その貝を耳に当てると、普通の貝殻の波音とは違う、かすかな女性の歌声が聞こえた気がした。
「ありがとう…」
それは明日香にだけ聞こえる声だった。
帰宅後、祖母から一通の手紙が届いた。そこには村の古い言い伝えが書かれていた。
「海の花嫁は、自分の身代わりになってくれた者に感謝の印を残す。その品を持つ者は、海の加護を受けるだろう」
明日香は貝殻を大切にしまい込んだ。それからというもの、彼女はいつも海の声が聞こえるような気がした。まるで海そのものが彼女に語りかけているかのように。
そして十年後、明日香が大学を卒業して故郷に戻った夏、再び満月の夜に人魚岩の上に立つ女性を見たという。しかしその時、女性は彼女に向かって微笑み、深々と頭を下げて、二度と現れることはなかった。
海の声を聞く能力を持った明日香は、やがて村の海の守り人として、多くの水難事故から人々を救うようになった。彼女はいつも言う。「海は恵みをもたらすけれど、時に命を奪う。だから敬わなければならない」と。
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日本各地の海岸線には、「人魚伝説」や「海の花嫁」にまつわる不思議な言い伝えが実在します。
2011年、和歌山県の小さな漁村で興味深い調査が行われました。この地域では、昔から「満月の夜に人魚岩で女性の姿が見える」という言い伝えがあり、地元の漁師たちはその日に海に出ることを避けてきました。研究者たちがこの現象を調査したところ、特定の角度から月光が岩に反射すると、人の形に見える錯覚が生じることが分かりました。しかし、それだけでは説明できない目撃例も多く報告されています。
また、2017年には三重県の海岸で不思議な現象が報告されました。夏の海水浴シーズン中、ある小さな入江で複数の遊泳者が「足を何かに掴まれた感覚」を体験したのです。海底の調査が行われましたが、物理的に足を捕まえるようなものは発見されませんでした。地元では「海の神様が警告している」と信じられています。
さらに驚くべきことに、2019年に九州の某漁村で行われた民俗学調査では、「海の声が聞こえる」という特殊な能力を持つ人々の存在が記録されています。彼らは海の状態を予測し、漁師たちに警告を与えることで、多くの命を救ってきたといいます。科学的な説明は難しいものの、彼らの予知は高い確率で的中していたそうです。
日本人が古くから抱いてきた海への畏怖と敬意は、現代においても様々な形で残されています。特に夏の海は、美しさと危険が共存する場所。そこには私たちの理解を超えた何かが今も存在しているのかもしれません。