向こう側の夏
七月最後の日、真夜中の電話で目が覚めた。画面を見ると「西尾」と表示されている。中学時代の親友だ。「こんな時間に何だろう」と思いながら電話に出ると、彼の声は震えていた。
「聞いてくれ、雅也。俺、窓に見えるんだ…別の世界が」
西尾の様子がおかしいことは電話越しでも分かった。「今から行くから、どこにいるんだ」と尋ねると、彼は実家の住所を告げた。西尾の実家は私の家から自転車で15分ほどの距離にある。
蒸し暑い夜だった。セミの鳴き声はまだ聞こえないが、空気は既に夏の重さを帯びていた。真夜中の住宅街を走りながら、西尾のことを考えていた。中学卒業後、彼は地元の高校へ、私は隣町の進学校へと進み、自然と疎遠になっていた。SNSでやり取りする程度の関係だったが、先月、彼の投稿が急に途絶えたことが気になっていた。
西尾の家に着くと、彼は一階のリビングで待っていた。部屋の明かりは消されており、彼は窓際に立ち、外を見つめていた。
「西尾、大丈夫か?」
彼は振り返りもせず、窓ガラスに手を置いたまま答えた。
「見えるか?あそこに」
彼の指す先には、ただ夜の闇と街灯の明かりがあるだけだった。
「何が見えるんだ?」
「ほら、あそこだよ。お盆の提灯が、道に並んでいるだろ?」
私にはそんなものは見えなかった。七月の終わりなのに、お盆の提灯とは意味が分からなかった。
「西尾、大丈夫か?熱でもあるのか?」
彼は首を横に振った。
「最初は俺も気のせいだと思った。でも、毎晩見えるんだ。窓ガラスに映るのは、この世界とは違う景色。そして、あの女の子がいるんだ」
「女の子?」
「白い浴衣を着た女の子。毎晩窓の外から俺を見ている。そして手招きするんだ」
西尾の目は充血し、顔色も悪い。数日間ろくに眠っていないように見えた。
「少し休もう。明日病院に行こう」と諭すように言ったが、彼は聞く耳を持たなかった。
「俺はおかしくなんかなってない!ほら、あそこに見えるだろ?」
彼は再び窓を指差した。その時、不思議なことが起きた。窓ガラスに映った西尾の姿の背後に、確かに誰かが立っているように見えたのだ。一瞬だけ、白い何かが揺れるのが見えた気がした。
「今、何か見えただろ?」西尾の声が高くなった。
私は正直に答えた。「一瞬だけ、何か白いものが見えた気がした」
西尾の表情が変わった。「やっぱり…」
その夜、私は西尾の家に泊まることにした。彼の両親は単身赴任と実家の介護で不在だという。二階の彼の部屋で布団を敷き、眠りについた。
真夜中、ふと目が覚めると、西尾がベッドから起き上がり、窓際に立っているのが見えた。月明かりに照らされた彼の姿が、窓ガラスに映っている。そして、窓の外から誰かが彼を見ているように感じた。
「西尾?」
彼は振り返らなかった。ただ窓に手を当て、何かを見つめている。
「彼女が呼んでいる。向こう側に行かなきゃ」
その言葉に背筋が凍りついた。西尾が窓を開けようとしているのが分かった。二階だ。飛び降りれば大怪我は免れない。
「やめろ!」
私は飛び起きて彼に向かって走った。しかし遅かった。窓が開き、西尾の体が宙に浮いた。
恐る恐る窓から外を覗くと、そこには庭の木々しか見えなかった。西尾の姿はどこにもない。まるで消えてしまったかのようだった。
警察が来て捜索が始まったが、西尾は見つからなかった。監視カメラにも防犯センサーにも、彼が家から出た形跡はなかった。まるで別の世界に消えてしまったかのように。
一週間後、西尾の日記が見つかった。そこには、七月初旬から奇妙な体験が記録されていた。
「窓に映る世界が変わり始めた。最初は一瞬だけだったが、今では長時間見える。そこは私たちの世界と同じようで、少し違う。街灯の位置が違う。木々の形が違う。そして、あの子がいる」
「彼女は私を待っている。白い浴衣を着て、提灯を持って。『お盆だから、早く来て』と言っている」
最後のページには、こう書かれていた。
「窓は鏡のようなもの。この世界と向こう側を映す鏡。彼女は言う。『窓を開ければ、向こう側に行ける』と。今夜、試してみる」
それから一ヶ月後、八月十五日のお盆の夜、私は再び西尾の家を訪れた。両親が戻ってきて、家の整理をしていた。
「雅也くん、良かったら西尾の部屋の荷物を整理するのを手伝ってくれないか」と西尾の母が言った。
二階の部屋に入ると、そこは一ヶ月前と変わらない様子だった。ただ窓だけが、厚い板で塞がれていた。
「あの夜以来、この窓からは変な音がするんです」と西尾の母は言った。「風が吹くと、誰かが名前を呼ぶような声が聞こえるの」
荷物を片付けていると、西尾のスマートフォンが見つかった。充電器につないで電源を入れると、カメラロールに一枚の写真があった。西尾が失踪した夜に撮影されたものだ。
そこには窓に映った西尾の姿と、その背後に立つ白い浴衣の少女が写っていた。少女の手には赤い提灯。そして窓の外には、現実には存在しないはずの提灯行列が続いていた。
その日以来、私は窓ガラスに映る自分の姿をじっと見つめることが怖くなった。特に夏の夜、窓の向こう側に、もう一人の自分とは別の何かが映り込んでいないか、確かめずにはいられない。
そして時々、窓越しに見える景色が、ほんの一瞬だけ違って見えることがある。その度に私は慌てて窓から離れる。西尾が見ていた「向こう側の世界」を、私も見てしまうことを恐れて。
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日本各地には、窓や鏡に関する不思議な体験談が数多く残されています。
2016年、宮城県の古い民家で起きた奇妙な出来事が地元の新聞で報じられました。夏の間だけ、特定の窓ガラスに映る景色が実際の外の景色と異なって見えるという現象です。住民の証言によれば、窓に映るのは「数十年前の風景」だったといいます。建築の専門家が調査しましたが、光の屈折や反射では説明できない現象でした。
2018年には、長野県の山間部にある旅館で、夏の客室の窓に「別の世界の景色」が映ると噂になりました。ある女子高生のグループが撮影した写真には、窓ガラスに映り込んだ提灯行列と、現代の服装ではない人々の姿が写っていました。写真分析の専門家も「合成や細工の痕跡はない」と証言しています。
また、2020年7月、北海道の古民家を改装したカフェで、窓越しに見える景色と実際の外の景色が一致しないという不思議な現象が報告されました。特に夕暮れ時、窓に映るのは現在の風景ではなく「これから起こる未来の景色」だという客の証言もあります。実際、窓に映った風景通りの出来事が数日後に起きたという例も複数記録されています。
民俗学者の間では、夏、特にお盆の時期は「あの世とこの世の境界が薄くなる」と考えられています。窓ガラスという透明な境界を通して、私たちの知らない何かが、こちらを覗いているのかもしれません。
そして時々、その窓を開けてしまう人がいる。その先に待っているのは何なのか—誰も戻ってきて教えてくれる人はいません。