「せ てく れ」
午後十一時四十分。福岡県宮若市、旧犬鳴トンネルの手前で、大学院生の藤田結季はレンタカーのハイビームを落とした。雨上がりの舗装は艶めき、道路脇のスギ林からは甘い腐葉土の匂いが立ちのぼる。助手席でビデオカメラを構えるのは同級生の北原渉。「卒業制作」と称して心霊スポットのドキュメンタリーを撮ると言いだしたのは北原だったが、犬鳴を選んだのは結季のほうだ。
彼女には忘れられない記事があった。――一九八八年十二月七日深夜、当時二十歳の男性が仲間内のトラブルで暴行を受け、旧犬鳴トンネル内に連れ込まれたあとガソリンをかけられ、火をつけられて殺害された。凶行は数時間にわたり、犯人グループは十代の少年五人。彼らは「騒ぎを隠すため」に被害者をさらに殴打し、焼死した遺体を放置したまま逃走した。トンネルは事件後コンクリートブロックで封鎖されたが、廃道に忍び込んだ若者たちが夜ごと壁を破り、内部は今も落書きと呪詛で埋め尽くされているという。
結季は九州出身だ。小学生の頃、深夜ラジオで聞いた“犬鳴村”の怪談に怯えつつ、とうてい実在しない村より「本当にそこで人が焼き殺された」現場のほうが怖いと感じていた。それから十余年、被害者の遺族は転居を余儀なくされ、犯人のうち二人は再犯を重ねて服役中らしい――事実と噂が絡み合うたび、結季の胸には澱のような違和感が沈殿してきた。
◇
車を降りると、虫の声がぴたりと止んだ。手製の柵をまたぐと旧道は湿った落ち葉で埋まり、左側には犬鳴川が音もなく流れている。北原はカメラのRECランプを灯しながら、
「一応、事件現場の説明から入ろうか。昼間のBロールも押さえてるけど、夜の方が雰囲気出るしさ」
冗談めかして笑った。結季は応じず、スマホで時刻を確認した。二十三時五十二分。被害者が拉致され、炎を浴びたのは零時を回る直前だった――無意味だが、時間を揃えたかった。
やがて鬱蒼とした闇の向こうに、口を継ぎ足したようなコンクリート壁が現れた。中央は拳大の穴が無数に空き、そこだけ要塞が虫食いになったようだ。壁の隙間から内部へ這い入ると、ひやりと冷たい空気が喉の奥へ落ちる。フラッシュライトの円錐が濁った水滴を照らし、落書きが次々と浮かび上がる。
『オレがやった』『呪』『おれが殺した』
同じ文言が色を変え、字体を変え、いくつも重なっている。酔狂な落書きか、犯人のひとりが後年こっそり書いたのか――真相は不明のままだ。
「なあ藤田、ここでファーストカット撮るわ」
北原は三脚を立て、画角を決めると結季にマイクを向けた。
「いいっすか? 被害者男性が倒れていた位置、たしかこのあたりで……」
「……違う。もう少し奥。」
結季は壁面の煤け具合と写真資料を照合し、崩れた排水溝の手前で立ち止まった。靴底が粘つく。かすかに焦げた油のような匂いがした。
北原がRECボタンを押す。結季はカンペも見ず、暗記した記事を朗読し始めた。
「――一九八八年十二月七日二十三時五十六分。ここ旧犬鳴トンネルにおいて、被害者A(仮名)は四方を囲まれ、灯油ライターで衣服に火をつけられ――」
その瞬間、フレームの外で「ドン」と乾いた音が弾けた。二人とも跳ねるように振り向く。後方三十メートル、封鎖壁の穴を通して外光が揺れた。誰かがブロックを蹴っているのか?
「……先客?」
北原が声を潜める。耳を澄ますと、足音は意外なほど軽い。コツ……コツ……と間を置き、壁の外周をゆっくり回るようだ。若い肝試しグループなら騒ぎ声がするはずだが、静寂の中で足音だけが律儀に続く。結季は咄嗟にライブマイクのゲインを上げた。
コツ……コツ……。
続いて、低いうなり声。語尾が湿って判別しづらい。だが確かに、男の声で「……さむい」と聞こえた。
“遺体は全身の皮膚が焼け落ち、十二月の外気にさらされた”という検死報告が一瞬で脳裏に蘇る。結季は反射的に北原の腕を掴んだ。
「戻ろう。編集でなんとかする」
「いや、むしろ撮れ高だろ? 行ってみようぜ」
結季が制止するより早く、北原は壁の穴をくぐり外へ飛び出した。闇。ライトの輪が左右へ揺れ、しかしそこには誰もいない。足跡も泥濘に残っていない。北原が首をひねったその背後で、トンネル内部が急に明るんだ。結季のライトが照らす壁面に、先ほどまで無かった文字が浮き出ている。
『 せ てく れ 』
ペンキではない。灰色の壁がしっとり濡れ、筋状に黒ずんだ部分だけが文字を形づくっている。雫が垂れ、カメラのレンズにも斑点が付着した。匂いは、灯油と焦げ肉の混じった甘ったるい刺激臭。
北原はようやく異常を悟ったらしく、青ざめて中へ駆け戻った。
「撤退しよう。マジでヤバい」
「うん……」
ふたりで壁をくぐろうとしたとき、結季のスマホが震えた。画面には非通知番号。躊躇いながら出る。
『……ま……』
聞き取りづらい。耳にスマホを押し当てた瞬間、熱風のような息遣いが吹きつけた。
『……水……を……くれ……』
ブツッ。通話が切れた。だがスピーカーの奥で、まだ呼吸音が続いているような錯覚が残った。北原が結季の肩を引っ張り、二人はトンネルを背に山道を駆け下りた。ライトの光が揺れるたび、背後で断続的に「コツ……コツ……」と足音が重なる。振り向けない。両者とも無言で車へ飛び乗り、ドアを閉めた瞬間、足音はぴたりと止んだ。
エンジンの唸りを押し殺すようにアクセルを踏む。旧道から県道へ合流すると、雨雲の切れ間に月が覗き、車内の沈黙が耳鳴りを呼んだ。北原がハンドルを握る手を震わせながら口を開く。
「……録れてたかな、今の」
「確認したい?」
「いや……怖いけど、確認しないと証拠にならんだろ」
結季はため息をつき、バッグからSDカードを抜いた。だが触れた指先が凍りつく。カードは異様に熱を帯び、プラスチックが柔らかく歪んでいた。リーダーに挿してもメモリを認識しない。バックアップで回していた内蔵メモリも同様だった。
「あの呼吸、まだ背中に付いてる気がする……」
結季が吐くと、北原も頷いた。窓ガラスにうっすらと曇りが現れ、その真ん中から指でなぞったように縦線が一本、ゆっくり下りていく。雨滴ではない――内側だ。結季は震える手で袖口を伸ばし、ガラスを拭った。その瞬間、曇りの向こうに誰かの顔が浮かび上がる。焼けただれた皮膚、皮下脂肪が露出した頬、ぎょろりと白目を剝いた眼。唇のない口が開閉し、音もなくこう呟く。
“みずを くれ”
結季は悲鳴を上げ、北原が急ブレーキを踏んだ。顔は一瞬で闇に溶け、曇りも消えた。車外には山霧と月光だけが漂う。二人は言葉を失い、やがて黙ったまま博多の街へ帰った。
◇
三日後。大学の編集室で、北原が血相を変えて駆け込んできた。昨夜未明、彼のアパートで火災報知器が作動したらしい。消火器が床に転がり、ガスコンロは冷たいまま。なのに寝室の壁だけ煤で黒く焦げ、そこに指で掻いたような焼跡があったという。――せてくれ。あの文字列と同じ欠字混じりの訴え。
SDカードのデータは復元業者に出したが、帰ってきた報告は「制御不能な高熱によるメモリの蒸発」。基板はガラス質に変質していた。まるで内部から瞬間的に千度近い熱が発生したようだと技師は首をかしげた。
◇
取材から一年。結季は卒業制作を別テーマに差し替え、東京の映像プロダクションで働いている。北原は福岡に残り、心霊系YouTuberとして細々と動画を上げている――が、旧犬鳴トンネルの件だけは語らない。ふたりのあいだでは固く封印した話だ。
それでも結季は雨の夜ごと、スマホが震える幻覚に襲われる。発信元はいつも非通知。留守電には声が入らない。ただ、耳の奥で炎の爆ぜる音と湿った息遣いが混ざり、「みず……」と呟く気配が残っている。
現場のコンクリート壁には、今も誰かが新しい落書きを書き足すという。最近増えているのは、赤いスプレーで大きく描かれた一文だ。
『水を与えよ、さもなくば火は終わらぬ』
――だが被害者が本当に欲しているのは、水なのか、それとも自分の火によって“誰か”を焼き尽くす機会なのか。結季にはわからない。ただ、夜風に雨の匂いが混ざるたび、あの焦げた呼吸が背骨を撫で上げるのを感じる。そして思うのだ。
「次はどこで、誰が “せてくれ” と壁に刻むのだろう」と。