囁く社の木
夏の日差しが照りつける中、私たち高校の歴史研究部は合宿のため山深い集落を訪れていた。福島県の山間部にあるその村は、古い神社と独特の夏祭りで知られる場所だった。
「ここが三日月神社か…」
先輩の川村が入口の鳥居を見上げながら呟いた。午後三時。蝉の声だけが響く静かな境内に、私たち五人の姿があった。
私、佐藤美月は二年生。顧問の高橋先生の案内で、夏休みを利用した「山間部の神社調査」という名目でここに来ていた。
「この神社、すごく古いんですよね?」と一年生の小林が訊ねる。
高橋先生は頷きながら答えた。「平安時代には既に記録がある。特に注目すべきは、あの御神木だ」
先生が指差す方向には、境内の奥に巨大な楠の木が聳えていた。樹齢千年とも言われるその木は、根元が大きく二つに分かれていた。
「二本で一つの御神木。珍しいでしょう?地元では『夫婦の木』と呼ばれています」
私たちがその木に近づくと、急に風が吹き、木の葉がざわめいた。あの時、既に何かがおかしいと感じるべきだったのかもしれない。
宿は神社から歩いて十分ほどの場所にある古民家だった。地元の神主さんが管理している宿で、夏は研究者や歴史好きな人たちが訪れるという。
「お気をつけください。明日は『夏越祭』です。祭りの間は山に入らないよう、お願いします」
神主の須藤さんは私たちにそう告げた。彼は六十代くらいの温厚そうな男性だったが、目は鋭く、何かを見透かすような視線を持っていた。
「どうして山に入っちゃいけないんですか?」と私が訪ねると、須藤さんは少し言葉を濁した。
「祭りの日は、神様が山を歩かれますので」
夕食後、部屋で調査資料を整理していると、一年生の田中が地元の言い伝えについて見つけた資料を見せてくれた。
「美月先輩、これ見てください。この村には『神隠し』の伝説があるんです」
資料によれば、この村では三十三年に一度、夏越祭の夜に行方不明者が出るという。最後に人が消えたのは1990年。若い女性が忽然と姿を消したという。
「次は…今年か」
言葉が出た瞬間、電灯が一瞬だけ明滅した。窓の外では、風がない筈なのに木々がざわめいていた。
その夜、私は奇妙な夢を見た。御神木の前に立つ自分。そこで何かが私の名前を呼ぶ。振り向くと、木の幹から半身を乗り出すような形で、白い着物を着た女性が手招きしていた。
「来て…一緒に…」
冷や汗をかきながら目を覚ました時、窓の外はまだ真っ暗だった。枕元の時計は午前三時を指している。
ふと気づくと、部屋の窓が開いていた。閉めたはずなのに。そして、私の布団の上には、木の葉が一枚落ちていた。
次の日、夏越祭の準備で村は活気づいていた。私たちは境内で記録写真を撮ったり、村人にインタビューしたりして過ごした。
「神隠しの話は本当なんですか?」と年配の女性に訊ねると、彼女は顔色を変えた。
「そんな話、誰から聞いたの?」
彼女の反応に驚いた私は、田中が見つけた資料の話をした。すると彼女は周囲を見回してから、小声で言った。
「あの木には近づかないほうがいい。特に若い女の子は」
「どうしてですか?」
「あの木は、人を選ぶの」
彼女はそれ以上話すのを拒み、足早に立ち去った。
夕方、祭りが始まった。村人たちは色とりどりの浴衣姿で、境内に集まっていた。太鼓の音が夏の夜空に響き、提灯の明かりが幻想的な雰囲気を作り出す。
私は一人、御神木の方へと足を向けていた。なぜか引き寄せられるように。
「佐藤さん、そっちはダメだ」
振り返ると、須藤さんが立っていた。
「今夜は特に、あの木には近づかないで」
「どうしてですか?あの木には何かあるんですか?」
須藤さんは深いため息をついた。
「三十三年前、神隠しにあった女性は、あの木の前で最後に目撃されたんだ。彼女は私の婚約者だった」
驚きのあまり言葉を失う私に、須藤さんは続けた。
「彼女は木の声が聞こえると言っていた。最後に会った日も、『木が呼んでいる』と言って…」
その時、急に境内が騒がしくなった。人々が慌てた様子で動き回っている。
「小林くんが見当たらないんです!」
川村先輩が走ってきて叫んだ。小林は一年生で、一番おとなしい男の子だった。
「いつ頃から?」
「夕食の後、『ちょっと写真を撮ってくる』と出て行ったきり…」
全員で手分けして探したが、小林の姿はどこにもなかった。村人たちも捜索に加わり、懐中電灯の明かりが村中を照らした。
真夜中近く、私は何かに導かれるように御神木の前に立っていた。月明かりに照らされた木の姿は、昼間とは違う不気味さを漂わせていた。
そして、木の幹と幹の間の暗い空間に、かすかな人影を見つけた。
「小林くん…?」
返事はない。私は恐る恐る近づいた。影は動かない。
「小林くん、みんな探してるよ」
その時、後ろから声がした。
「美月先輩、そこにいたんですか!」
振り返ると、小林が立っていた。健康そのもので、少し興奮した表情をしている。
「小林くん!?どこにいたの?みんな心配して…」
「ごめんなさい。村の奥にある古い祠を撮影していたら、道に迷って…」
私は混乱した。今、木の間に見た人影は?振り返ると、そこには何もなかった。
小林の無事を喜ぶ中、私だけが不安を感じていた。彼の話には何か違和感がある。そして彼の首筋に、私は見覚えのない木の葉の形をした痣を見つけた。
夜が明け、最終日の朝を迎えた。帰り支度をしていると、田中が慌てて部屋に飛び込んできた。
「先輩、大変です!村の古文書を見つけたんです!」
彼女が見せてくれたのは、須藤さんの家の蔵から特別に見せてもらったという古い巻物のコピーだった。そこには「人身御供」の文字と共に、かつてこの村では三十三年に一度、若者を御神木に捧げる儀式があったと記されていた。
「御神木は生贄を求めている…」
この村を出る直前、私は再び御神木の前に立っていた。風もないのに、木の葉がざわめく音がする。
「佐藤さん」
振り返ると、須藤さんが立っていた。
「あなたは木の声が聞こえるんですね」
驚く私に、彼は静かに続けた。
「今年は、小林君が選ばれた。神様は、若い命を求める」
「どういう意味ですか?」
「小林君の体には、もう別の何かが宿っている。あの木に選ばれた者は、外見は同じでも、中身は…」
その時、バスのクラクションが鳴った。
「行かなきゃ」
私は急いで荷物を持ち、バスへと向かった。車窓から見た最後の景色は、御神木の前に立つ須藤さんと、その隣にいる小林くんの姿だった。
小林くんは、こちらを見て微笑んでいた。その笑顔は、どこか別人のようだった。
帰りのバスの中、私はずっと考えていた。あの御神木には本当に何かが宿っているのか。そして小林くんは本当に小林くんなのか。
高校に戻って一週間後、小林くんは転校することになった。理由は「家族の事情」と言われていたが、詳しいことは誰も知らなかった。
彼が最後に私に渡してくれたのは、御神木の写真だった。そこには何か奇妙なものが写っていた。木の幹から覗くような形で、白い着物を着た女性の顔が…。
あれから十年。私は民俗学者になり、あの村の調査を続けている。そして最近、ある事実を知った。三十三年前に行方不明になったという女性は、実は見つかっていたのだという。彼女は村に戻り、今も暮らしているというのだ。
しかし、須藤さんは「彼女は別人になった」と言い、結婚を取りやめたという。
今年も夏が来る。そして三十三年後、また誰かが木に選ばれる。
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福島県の山間部には、実際に「夫婦神木」と呼ばれる二股に分かれた御神木を持つ神社がある。2011年の東日本大震災の際、周辺の木々が多く倒れる中、この御神木だけは無傷で残ったという。
地元の古老によれば、この神社では古くから「木霊」の伝承があるという。特に若い女性が木の近くで「自分の名前を呼ぶ声」を聞いたという証言が複数残されている。
1990年8月、この地域で実際に18歳の女性が行方不明になった事件があった。捜索が続けられる中、3日後に彼女は神社の御神木の前で倒れているところを発見された。彼女は記憶を失っており、「木の中に入った」という断片的な言葉を残している。
さらに興味深いのは、2000年に行われた樹木医による御神木の調査だ。木の内部に空洞があり、その形状が人が入れるほどの大きさだったという報告がある。
また、この神社で撮影された写真に、木の幹から顔を覗かせるような人影が写り込む現象が複数報告されている。専門家による分析でも説明がつかないこの現象を、地元では「木の神様の姿」と畏れている。
現在でも、この神社の夏祭りの日には、御神木に近づくことを禁じる風習が残されている。そして地元の人々は口を揃えて言う。「木が囁いたら、決して応えてはいけない」と。