百八の鐘
僕が高校二年の夏、祖父の葬式で訪れた山奥の古寺で、あの出来事は起きた。
東京から電車を乗り継いで4時間。窓の外を流れる景色が徐々に都会から田舎へと変わっていく中、僕は祖父のことを思い出していた。子供の頃、祖父の家に遊びに行くと必ず聞かせてくれた不思議な話。特に「除夜の鐘」の話は僕のお気に入りだった。
「除夜の鐘は百八回。人間の百八の煩悩を払うためにね」
その祖父が亡くなったという知らせを受けたのは、夏休み初日の朝だった。
山間の小さな駅に降り立ち、タクシーで向かった先は、深い杉木立に囲まれた古びた寺院だった。「霊山寺」という名のその寺は、山の斜面に建てられ、石段を上った先に本堂がある。創建は平安時代とも言われる由緒ある寺だと、タクシーの運転手が教えてくれた。
「あの寺、最近住職がいなくなってね。お爺さんの葬式、誰がするんだい?」
運転手の言葉に、母は「遠方から僧侶を呼んでいる」と答えた。祖父はこの寺の世話役をしていたらしい。僕は初めて知った。
石段を上り詰めると、本堂の横に鐘楼が見えた。大きな梵鐘が風に吹かれて、かすかに音を立てている。
「祖父さん、あの鐘を鳴らす係だったの?」と僕が尋ねると、母は少し困ったような表情をした。
「そうね…昔はね。でも最近はもう鳴らしていないはず」
その日の葬儀は簡素に行われた。遠方から来た僧侶が読経し、親族だけで見送った。葬儀の後、僕たちは寺に一泊することになった。夏とはいえ、山の中は夜になると冷え込む。本堂の隣にある客間に布団が敷かれ、僕たち家族は疲れて早々に床についた。
真夜中、突然の音で目が覚めた。
「ゴーン…」
鐘の音だった。寝ぼけながらも時計を見ると、午前0時ちょうど。
「除夜の鐘?でも今は夏なのに…」
好奇心に駆られた僕は、そっと布団から抜け出し、外に出た。月明かりに照らされた境内は、昼間とはまるで違う雰囲気だった。鐘楼へと向かう途中、本堂の縁側に誰かが座っているのが見えた。
近づいてみると、それは見知らぬ老僧だった。白い法衣をまとい、月の光に照らされて、どこか透き通るような姿をしていた。
「あの、今の鐘は…」
老僧はゆっくりと顔を上げ、僕を見た。その目には深い悲しみが宿っていた。
「百八の煩悩を払う鐘ではない。あれは『迎え鐘』じゃ」
「迎え鐘?」
「この世を去る者を、あの世へ迎える鐘。昔からの習わしじゃ」
その言葉と同時に、再び鐘が鳴った。
「ゴーン…」
「誰かが亡くなったんですか?」
老僧はゆっくりと首を振った。
「もうすぐじゃ。あと百六回、鐘が鳴れば…」
背筋に冷たいものが走った。老僧の言葉によれば、この寺では誰かが死ぬ前に百八回の鐘が鳴るという。除夜の鐘と同じ回数だが、意味は正反対だというのだ。
「でも誰が鐘を…」
「気づいておらんのか。お前の祖父じゃよ」
その瞬間、鐘楼の方から祖父の姿が見えた気がした。月明かりに照らされた祖父は、白い着物を着て、大きな鐘の前に立っていた。
僕は思わず声を上げようとしたが、老僧に止められた。
「邪魔をしてはならぬ。彼は務めを果たしておるのだ」
「どういうことですか?」
老僧は静かに語り始めた。この寺では古来より、人が死ぬ前に百八回の鐘を鳴らす習慣があるという。その鐘は亡くなる人自身が鳴らすこともあれば、すでに亡くなった先祖が代わりに鳴らすこともあるという。
「今夜、百八回目の鐘が鳴る頃には、誰かがこの世を去る」
恐怖で体が震えた。僕は母たちのことが心配になり、客間に戻ろうとした。その時、三度目の鐘が鳴った。
「ゴーン…」
「おじいちゃんは誰のために鐘を鳴らしているんですか?」
老僧は答えなかった。ただ静かに微笑んだ。その笑顔に、僕は不思議な安心感を覚えた。
「お前の祖父は長年、この寺の世話をしてきた。最後の住職が亡くなってからも、一人でこの寺を守ってきたのじゃ」
「最後の住職って…」
「わしのことじゃよ」
その言葉で、全てが繋がった。目の前の老僧もまた、この世の人ではなかった。
その夜、僕は老僧と共に縁側に座り、鐘の音を聞きながら祖父の思い出話を聞いた。祖父がいかにこの寺と鐘を大切にしていたか、そして住職が亡くなった後も、誰もいなくなったこの寺を守り続けたことを。
夜が明ける頃、ちょうど百七回目の鐘が鳴った。
「もう一つだけ聞かせてください。この鐘は、誰のために鳴らされているんですか?」
老僧は静かに立ち上がり、本堂の方を見た。
「お前自身が気づくときが来るじゃろう」
そう言うと、老僧の姿は朝日の中に溶け込むように消えていった。
混乱した僕は客間に戻った。母と父はまだ眠っていた。しかし、隣の部屋で寝ていたはずの祖母の姿がない。
「おばあちゃん?」
慌てて境内を探し回ると、本堂の裏手で祖母を見つけた。祖母は木の根元に座り、静かに目を閉じていた。
「おばあちゃん、大丈夫?」
声をかけても反応がない。近づいて肩に触れると、祖母の体は冷たかった。
その瞬間、百八回目の鐘が鳴った。
「ゴーン…」
祖母は安らかな表情で、この世を去っていた。医師の診断によれば、心臓発作だったという。苦しむことなく、眠るように亡くなったそうだ。
葬儀の日、僕は鐘楼に向かった。大きな梵鐘の前に立ち、おそるおそる触れてみる。しかし、鐘は重すぎて、一人では動かせない。
「どうやって鳴らしたんだろう…」
その時、鐘の側面に彫られた文字に気がついた。
「迎え鐘、送り鐘。この音は魂の道しるべなり」
そして、その下に小さく刻まれた日付。それは住職が亡くなった日付だった。住職の名前の下には、祖父の名前も刻まれていた。
この寺に伝わる「百八の鐘」の伝統は、祖父が最後まで守っていたものだったのだ。そして今、その鐘は祖母を迎えるために鳴らされた。
あれから十年が経った。あの寺は今では無住となり、地元の保存会が管理している。しかし、地元の人々の間では、今でも誰かが亡くなる前夜に、あの鐘の音が聞こえるという噂が絶えない。
そして時々、山を訪れる人々は、本堂の縁側に座る老僧と、鐘楼の前に立つ老夫婦の姿を目撃するという。
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日本各地には寺院の鐘にまつわる不思議な言い伝えが実在します。
2007年、奈良県の山間部にある古刹で興味深い調査が行われました。この寺では、地元の人々の間で「夜中に鐘の音が聞こえると不幸が訪れる」という言い伝えがあったのです。研究者が地域の古文書を調査したところ、江戸時代初期から同様の記録が残されていました。
さらに驚くべきことに、2013年には福井県の古寺で実際に起きた出来事が報告されています。ある夏の夜、近隣住民の多くが午前0時頃から鐘の音を聞いたと証言しました。翌朝、寺に確認したところ、誰も鐘を鳴らしていないにもかかわらず、鐘の周りには誰かが触れた形跡があったといいます。そして数時間後、その寺の檀家の一人が突然亡くなったというのです。
2018年には東北地方の古い寺院で行われた心霊調査で、夜間に録音された音声の中から、人の手で鳴らされたとは思えない鐘の音が記録されました。音響分析の結果、その音は通常の鐘の振動パターンとは異なる特徴を持っていたそうです。
日本では古来より、鐘の音には特別な意味が込められてきました。除夜の鐘は煩悩を払うだけでなく、あの世とこの世の境界を示す音とも考えられてきました。特に夏のお盆の時期は、先祖の霊がこの世に戻ってくるとされ、多くの寺院で「迎え鐘」や「送り鐘」が鳴らされます。
現代科学では説明できない現象ですが、寺院の鐘を通じて、この世とあの世が繋がる瞬間があるのかもしれません。今も日本各地の古寺では、誰も鳴らしていないはずの鐘の音が聞こえるという不思議な体験が報告され続けているのです。