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怖い話  作者: 健二
23/45

「矢弾沢の番人」

 深夜の中央高速をひた走るワゴン車の窓に、二月の月が薄く揺れていた。ハンドルを握るフリーライターの坂崎は、霧が滲むヘッドライトの先を睨みながら、助手席で仮眠を取る写真家の仁科を一瞥した。ふたりは山梨の「青木ヶ原樹海」に向かっている。自殺の名所として有名なあの森を、坂崎はもう三度取材しているが、今夜はいつもと趣が違った。


 先週、県警の記者クラブに奇妙なリークが舞い込んだ。樹海で発見された白骨のそばに、年代物のソニー製ミニディスクレコーダーが置かれていたという。音源を解析した鑑識によると、最後の二分間に「一九九九年の“矢弾沢転落事故”の被害者と思われる声」が入っているらしい。


 矢弾沢転落事故――耳慣れない事件だが、調べてみると確かに実在した。二十四年前の冬、横浜の大学生三名が樹海でキャンプをしている最中に沢へ転落、二名死亡・一名行方不明となった事故だ。当時、残されたビデオカメラから「第三者の声が入っていた」と週刊誌が囃したが、警察は事故として処理した。行方不明の一名は今に至るまで発見されていない。


 「幽霊の声が録れたって話は樹海じゃ腐るほどあるが、二十年以上前の具体的な事件名を口走るテープとなると面白いだろう?」

 そう言って仁科は爛々と目を輝かせ、取材を即決したのだった。


     * * *


 午前一時半、ふたりは富岳風穴近くの駐車場に車を停めた。吐く息が白い。ヘッドランプを点け、雪の残る獣道を踏み分ける。夜の樹海は、風が途切れるたびに全方位から静寂が押し寄せ、耳鳴りのような鼓動を胸の裏で跳ね返した。


 予定していたテント跡は、樹海の中でも滅多に人の入らない旧探索路の奥だ。樹海は磁場の乱れでコンパスが効かないという俗説があるが、実際にはほとんど誤差は出ない。むしろ迷わせるのは、似た景色が無限に続くという心理的な罠だ。坂崎はGPSと紙地図を併用し、慎重に進んだ。


 夜明け前の三時過ぎ、霧がほぐれた斜面に、雪に半ば埋もれたブルーシートが現れた。腐葉土の臭いが鼻を突く。遺留品はすでに警察が回収しており、現場にはビニールテープの目印が残るだけだ。ふたりはそこから三十メートルほど離れた平地を探し、取材拠点となる小型テントを張った。坂崎は熱湯を注いだインスタント味噌汁をすすりながら、録音機材の電源を入れた。


 「……で、例の音源のダビングがこれか」

 仁科がヘッドホンを片耳だけ当てる。かすかな風の呼吸と、遠くの国道を走るタイヤ音。そして、ノイズにまぎれて確かに若い男の声が入っていた。


 『たすけて……たすけてくれ……矢弾沢が……落ちた……』


 声は数回繰り返され、最後に女の甲高い悲鳴で途切れる。テープの切れ目に深い無音が続き、次に鳴るのは警察無線の交信だった。まるで、二つの時間がテープの上で接合されているかのように。


 「事故当日のテープと今回のテープが混線したんじゃないか?」仁科が首を傾げる。

 「いや、無線は二〇二三年の暗号化チャンネルだったってさ。鑑識は“別の現場の無線が偶然拾われた”と説明したが、俺は腑に落ちない」

 坂崎は湯気を吐き捨て、テントの外へ出た。黒い森が自分をのみ込むのを待ち構えているようだった。


     * * *


 取材二日目、雪は止み、木々の隙間から冬の陽が差した。ふたりは現場周辺で金属探知機をかけ、古い飲料缶や空薬莢(猟師のものだろう)を掘り出したが、決定的な手がかりは見つからない。


 午後三時ごろ、仁科が「おい、聞こえねぇか」と耳を澄ませた。風のない森の底から、かすかな水音――落水の響きがする。矢弾沢は地形図で見れば、ここから南へ二百メートルほどの距離だが、崖を下りねばならない。日没までに戻れる距離ではある。坂崎は逡巡したが、行ってみようと決めた。


 枯れた溶岩の裂け目を縫い、苔むした岩を踏み外さないようロープを渡す。と、坂崎の右足が不意に沈んだ。空洞だ。崖の直下に溶岩洞窟が口を開けている。洞窟の奥から冷えきった空気と共に、微かな人のうめき声のような振動が伝わってくる。


 「録音しろ!」仁科が叫び、ICレコーダーを差し出す。坂崎はヘッドランプを点け、膝ほどの深さまで潜り込んだ。そこには、半ば崩れかけた古い木箱があった。隙間から覗くのは、フィルムケースと、水浸しになった紙片……そして人骨の指のようなもの。


 「おい、ヤバいぞ……!」

 坂崎が木箱を引きずり出す寸前、洞窟の奥で何かが動いた。石が落ちて転がる音。ライトを向けても、黒い闇は厚い布のように視界を塞いだ。


 坂崎は木箱を抱え、半ば這うように地上へ戻る。仁科が手を引いてくれ、背後の穴を覗く。

 「今、見えた……?」

 「何をだ?」

 「人影が……いや、違う、四つん這いの……」


 言い終わらぬうちに、洞窟から甲高い声が木霊した。

 『たすけて……たすけ……』


 あのテープと同じ声だった。ふたりは顔を見合わせ、無言で沢へ向かって駆けた。


     * * *


 矢弾沢は、冬でもわずかな水が流れる深いV字谷だ。坂崎は木箱を背負ったままロープをおろし、慎重に降りた。底に着くと冷気が肺を刺すほど痛い。辺り一面、岩肌が垂直に聳え、薄暗い谷は闇夜のようだ。


 そこで坂崎は、違和感を覚えた。正面斜面の岩肌に、濃い墨汁を垂らしたような縦線がある。近寄ると、それは乾ききって黒変した古い血痕だった。血痕の下には、半分土砂に埋もれた黄色いテントがあった。二十四年前の事故現場そのものだ。


 ジッパーは完全に腐り、代わりにテントの端を留めていたのは、赤錆びた手錠だった。坂崎は凍りつきながらファスナーをこじ開けた。テントの中には、朽ちかけた寝袋、古いカセットテープ、そして人間の頭蓋骨。頭蓋骨の側頭部には、何か金属片が打ち込まれた跡がある。


 「……事故じゃない。殴打痕だ」

 背後から仁科が呟いた刹那、谷の上で枝が裂ける音がした。見上げると、崖上に人影がひとつ。逆光になって輪郭しかわからないが、フード付きのパーカーを着ている。樹海では珍しくない“死に場所探し”の若者か――そう思った瞬間、その人影が飛び降りた。


 しかし落下音はない。視線を戻すと、谷底の二人のすぐ後ろにそいつが立っていた。距離は三メートル。わずかに口元が笑うように引き攣り、顔の左半分がただれている。どこかで見た顔――そうだ、警察が公開していた“行方不明の大学生”のモンタージュに酷似していた。


 「……たすけて」影が口を開いた。その声は最初に聞いたテープとまったく同じだった。だが次の瞬間、声は低く濁り、別の言葉を吐いた。

 「かえれ……」


 静寂が弾け、坂崎は反射的にフラッシュを焚いた。閃光の向こうで仁科がシャッターを切る。影は後ずさりもせず、ただ微笑み続けた。その顔から皮膚が砂のように崩れ落ち、地面へ散った。骨と肉が瓦解し、人影は音もなく霧へ溶け、谷底には何も残らなかった。


 ふたりはテントを捨て、木箱だけ抱え、闇雲に崖をよじ登って逃げた。背中で何度も、「かえれ」という声が風に乗って追ってきた。時計を見る余裕もないまま、ようやく駐車場へ辿り着いたころには夜が明けかけていた。


     * * *


 東京都内へ戻った坂崎は、木箱の中身を確認した。水気で膨張したフィルムを慎重に引き出し、専門ラボでデジタル化してもらった。現像された数十枚のネガには、二十四年前の大学生たちが写っていた。最後のコマ――夜の沢を照らすライトの先に、フードの人物が立ち、彼らを見下ろしている。フィルムの端には手書きでこうあった。


 『あれは“矢弾沢の番人”だ。顔を見られたら、帰れない。』


 坂崎は記事をまとめ、週刊誌に売り込んだ。だが編集長から返ってきたのは「写真が全コマ白飛びしている」という報告だった。ラボのデータも、バックアップも同様だった。その晩、仁科から電話が入る。


 「坂崎……俺のカメラのCFカードが全部飛んでる。テントのとき撮ったはずの写真が一枚もない。代わりに変な音声ファイルがあってさ……」

 ノイズの向こうで、あの声が再生された。『かえれ……かえれ……』


 ただし、一度だけ違う言葉が混ざる。

 『つぎは そっちが くるばんだ』


 通話はそこで途切れ、翌朝仁科は自宅アパートで失踪していた。防犯カメラには、真夜中に自ら玄関を出て路地へ消える仁科の姿が映っていた。膝を引きずるような、不自然な四つん這いで。


     * * *


 この記事を書いている今も、坂崎の机の上には例のテープと木箱の鍵だけが残っている。警察は「遺棄骨事件」として捜査を続けているが、樹海の“矢弾沢転落事故”は公式にはいまだ「滑落死」とされたままだ。


 夜更け、窓の外で風が鳴るとき、坂崎はヘッドホンを外す。遠くで誰かが呼ぶ声がするたび、あの谷底で見た影が思い出される。耳を澄ませば、声はたしかにこう繰り返すのだ。


 「かえれ。ここは、まだ終わっていない。」


 だから坂崎は今夜も、原稿を送信しない。送れば、次は自分が“そっち”へ行く番なのだとわかっているから。

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