案山子の目
「案山子に目を付けてはいけない」
そう言われても、どうしてなのか誰も教えてくれなかった。
高校二年の夏休み、東京から電車で三時間の田舎町にある祖父母の家で過ごすことになった僕は、この地域に古くから伝わる不思議な言い伝えを知った。
「案山子に目を付けると、魂が宿ってしまう」
田んぼの中に立つ案山子は、ただの鳥除けではない。この村では毎年八月一日に「案山子立て」という行事があり、各家庭が丁寧に作った案山子を田んぼに立てる。しかし、絶対に目だけは付けてはいけないという不思議な決まりがあった。
祖父は背筋を伸ばし、真剣な表情でこう付け加えた。
「昔、この村で目付きの案山子を作った家があってな。その夜から、案山子が少しずつ動くようになったんだ。最初は向きが変わるくらいだったが、やがて田んぼの中を歩くようになった。そして満月の夜、その案山子は家の中に入り込み…」
話の続きを聞こうとした僕に、祖母が慌てて制した。
「もうやめなさい!その話をすると縁起が悪い」
僕は好奇心をかき立てられた。次の日から、村の案山子を観察するようになった。確かにどの案山子も、顔の部分は白い布か紙袋で覆われているだけで、目は描かれていなかった。
「なんで目を付けちゃいけないんだろう?」
同級生の大樹に話すと、彼はニヤリと笑った。大樹も祖父母と過ごすために村に来ていた。
「試してみるか?俺たちで目付きの案山子を作ってさ」
「でも…」
「迷信だよ、そんなの。今どき信じるやついないって」
大樹の言葉に、僕も同意した。現代の科学で説明できない現象なんてないはずだ。そう思い込みたかった。
次の日、僕たちは誰にも見つからないよう、村はずれの使われていない田んぼに自分たちで案山子を立てることにした。古い麦わら帽子と祖父の古着を借り、藁で人形の形を作る。
「さあ、目を付けよう」
大樹は黒いマジックで、案山子の顔に当たる部分に二つの点を描いた。まるで人間のような、黒い瞳。
「これでよし」
案山子を田んぼの中央に立て、僕たちは満足げに見上げた。少し風が吹き、案山子が揺れる。その瞬間、不思議な感覚に襲われた。まるで案山子が僕たちを見ているかのような違和感。
「なんか…変な感じがしない?」
大樹も同じことを感じたらしく、顔色が変わった。
「気のせいだよ。帰ろう」
その日の夕方、祖父から案山子立ての由来について聞いた。この村では古くから、案山子には「身代わり」の意味があるという。かつて疫病が流行った時、村人たちは藁人形を作り、自分たちの身代わりとして田んぼに立てた。そうすることで災いを人形に移し、村を守ったのだという。
「だから目を付けてはいけないんだ。目は魂の窓。目があると、人の魂が入り込む場所ができてしまう」
その夜、激しい雷雨が村を襲った。窓の外は真っ暗で、稲光だけが時折風景を照らす。ふと窓の外を見ると、稲光に照らされた田んぼの向こうに、人影のようなものが見えた気がした。
「あれは…」
案山子だ。だが、さっきまであった場所より、明らかに家の方に近づいている。
「気のせいだ」
自分に言い聞かせ、布団に潜り込んだ。しかし、眠れない。雨の音と雷鳴の合間に、何かが動く音が聞こえるような気がする。
夜中、トイレに起きた時だった。廊下の窓から外を見ると、家の庭に何かが立っていた。雨に濡れた案山子が、家の中を覗き込むように立っていたのだ。
震える手で祖父を起こした。
「庭に…案山子が…」
祖父は慌てて起き上がり、窓から外を見た。そして顔色を変えた。
「まさか…お前たち、案山子に目を付けたのか?」
観念して事実を話すと、祖父は急いで仏間に向かった。そこから古い箱を取り出し、中から塩と紙のお札を取り出した。
「今夜は満月だ。案山子が動くのは、こういう夜だけだ」
雨雲で月は見えなかったが、カレンダーを見ると確かに満月の夜だった。
「祖父さん、どうしたらいいの?」
「案山子を燃やさねばならん。そして灰を川に流す」
その時、一階から物音がした。何かが家の中に入ってきたのだ。
「二階に上がってくる。お前はここにいろ」
祖父は塩と札を手に、階段に向かった。だが、僕も後を追った。階段の下には、ずぶ濡れの案山子が立っていた。風で揺れるのではなく、明らかに自分の意志で動いている。そして、黒い目が僕たちを見上げていた。
「返せ…」
耳元でかすかな声が聞こえた気がした。
「返せ…私の…」
祖父は案山子に向かって塩を投げかけ、お札を貼りつけようとした。しかし案山子は素早く動き、祖父の手をつかんだ。
「祖父さん!」
案山子は祖父を引きずりながら、家の外へと向かい始めた。僕は必死に祖父の腕を引っ張ったが、案山子の力は異常に強かった。
その時、祖母が現れた。手には古い鎌を持っている。
「離しなさい!」
祖母は案山子の腕を鎌で切り落とした。案山子は一瞬動きを止め、切れた腕から藁がこぼれ落ちた。
「火を!早く火を!」
祖父の指示で、僕は台所からライターを持ってきた。祖父は案山子に火を放った。乾いた藁はすぐに燃え上がり、案山子は炎に包まれた。その瞬間、案山子の口から黒い煙が漏れ出し、夜空へと消えていった。
翌朝、僕たちは燃え残った案山子の灰を集め、村を流れる川に流した。祖父は静かに手を合わせ、何かを祈っていた。
「何があったんだ?あの案山子は…」
祖父は長い沈黙の後、ゆっくりと話し始めた。
「五十年前、この村で殺人事件があった。若い男が婚約者を殺し、自分も首を吊って死んだ。男の遺体は田んぼで見つかったんだが…奇妙なことに、傍らには目を持つ案山子が立っていた」
「まさか…」
「男は死ぬ前に自分の魂を案山子に移したのかもしれん。だから村では、それ以来、案山子に目を付けることを禁じたんだ」
「でも、なぜ今になって…」
「お前たちが立てた場所は、あの事件のあった田んぼだ。そして、今年はちょうど五十回忌にあたる」
その日から、僕は二度と案山子を見ることができなくなった。夕暮れ時の田んぼを見ると、案山子たちが僕を見つめているような錯覚に襲われる。特に、黒い点のような目が。
夏休みが終わり、東京に戻った後も、その感覚は消えなかった。夜、窓の外を見ると、時々人影のようなものが見える。そして風のない日でも、窓が揺れることがある。
最近、僕の部屋の壁に、黒いシミが二つ並んでできた。まるで、目のような形をしている。
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案山子にまつわる不思議な言い伝えは日本各地に実在します。
2005年、新潟県の山間部で行われた民俗学調査では、「案山子に目を付けない」という風習が複数の集落で確認されました。地元の古老によれば、「目は魂の入り口であり、目を付けると何かが宿る」という言い伝えがあるとのことです。
また、2013年には秋田県の農村で興味深い事例が報告されています。ある家族が伝統に反して目付きの案山子を田んぼに立てたところ、周囲の案山子が次々と倒れるという現象が起きました。気象条件では説明できない不思議な出来事に、地元では「案山子の祟り」という噂が広まったそうです。
さらに驚くべきことに、2017年には茨城県の集落で「動く案山子」の目撃情報が相次ぎました。満月の夜、田んぼの案山子が位置を変えていたというのです。防犯カメラには人の姿は映っておらず、風や動物の仕業とも考えにくい状況でした。
日本の農村では古来より、案山子には単なる鳥除け以上の意味がありました。特に「身代わり案山子」という風習は、疫病や災害から村を守るための重要な儀式でした。人の形をした案山子に災いを移し、村の外に運び出すという信仰は、形を変えて今も残っています。
現代科学では説明できない現象ですが、古くから日本人は自然や人形に宿る「霊性」を感じ取り、共生してきました。夏の田んぼに立つ案山子が、時に不思議な力を持つという言い伝えは、今なお日本の農村で語り継がれているのです。