神楽面の囁き
夏の終わりを告げる祭り。地方都市の高校二年生である僕は、地元の氏神様を祀る夏祭りの準備を手伝うことになっていた。この祭りは三百年以上の歴史があり、特に夜に行われる「鎮魂神楽」は県の無形文化財に指定されている伝統行事だ。
「健太、この箱を神楽殿まで運んでくれるか」
祭りの責任者である宮本さんが、古びた木箱を指さした。箱には「天保十二年」と墨書きされており、かなり古いものだとわかる。
「これは何ですか?」と僕が尋ねると、宮本さんは少し表情を曇らせた。
「神楽面だ。毎年使う予定だったが、十年前から使われていない。今年は特別な年だから、また使うことになった」
何が特別なのかは説明してくれなかったが、僕は素直に箱を受け取り、神社の奥にある神楽殿へと向かった。神楽殿は普段は閉ざされており、祭りの時期だけ開放される古い建物だ。
神楽殿に入ると、中は薄暗く、古い木の匂いがした。僕は指示された棚に箱を置こうとした時、なぜか箱がすべり落ち、床に散らばってしまった。
「やばっ…」
慌てて箱の中身を集めると、そこには五つの神楽面が入っていた。獅子、翁、女神、鬼、そして…名前のわからない不気味な面だ。最後の面だけ他とは明らかに違っていた。色あせた木に、黒く塗られた目と口。しかし口は微笑んでいるようにも見え、怒っているようにも見える不思議な表情をしていた。
「すみません、落としてしまって…」
振り返ると、いつの間にか宮本さんが立っていた。彼は散らばった面を見て、顔色を変えた。
「触ったのか?最後の面に」
「いえ、まだ…」
宮本さんは深くため息をついた。
「あの面だけは素手で触るな。あれは『呼び寄せの面』だ。祭りの最終日、神様を招くための特別な面だ」
彼は丁寧に面を拾い、箱に戻した。最後の面だけは布で包んでから箱に入れた。
「今年は十年に一度の大祭だ。氏神様に加えて、山の神も招く特別な年なんだ」
それから数日間、祭りの準備は着々と進んだ。僕は放課後に神社に通い、様々な雑務を手伝った。しかし、あの不思議な面のことが頭から離れなかった。
祭り前夜、僕は神楽の練習を見学していた。地元の神楽保存会の人たちが、明日の本番に向けて最終調整をしていた。そこで見た神楽面は先日見たものと同じだったが、あの不思議な「呼び寄せの面」だけはなかった。
「あの面はどうしたんですか?」と担当者に尋ねると、
「明日、特別な儀式の時だけ使うんだ。それまでは神主さんが預かっている」という答えが返ってきた。
その夜、僕は奇妙な夢を見た。暗い森の中で、あの面をつけた人物が僕の名前を呼んでいるのだ。声は遠くから聞こえるようで、かすかだったが、確かに僕の名前だった。目が覚めると、窓の外は真っ暗で、時計は午前3時を指していた。
祭り当日、神社は多くの人で賑わった。夕方からは神楽が始まり、獅子舞いや様々な舞が披露された。しかし、最後の「神迎えの舞」だけは一般人は見ることができないと言われ、僕たち準備の手伝いをした者も外に出されてしまった。
「なぜ見られないんですか?」と僕が宮本さんに尋ねると、
「あの舞は本当に神様を招くものだから。神様の姿を直接見ると、たたりがあるんだ」
その言葉に僕は背筋が寒くなった。しかし同時に、あの不思議な面への好奇心が抑えきれなかった。
祭りが深夜に差し掛かる頃、人々が帰り始め、神社は次第に静かになった。僕は友人たちと別れた後、こっそりと神楽殿の裏手に回った。小さな窓から中を覗くことができるかもしれないと思ったのだ。
神楽殿の裏には誰もおらず、僕はそっと窓に近づいた。薄暗い光の中、一人の舞手が「呼び寄せの面」をつけて舞っているのが見えた。不思議なことに、舞手の動きは人間離れしていて、まるで風に揺れる木の葉のようだった。
突然、舞手が立ち止まり、ゆっくりと窓の方を向いた。僕と目が合った瞬間、激しい頭痛に襲われた。意識が遠のく中、舞手の面から黒い霧のようなものが湧き出し、窓を通して僕の方へと伸びてくるのが見えた。
次に目が覚めたのは、神社の境内だった。周りには誰もおらず、祭りは既に終わっていたようだ。時計を見ると、午前5時を過ぎていた。一体どうやってここまで来たのか、記憶がなかった。
家に帰ろうとした時、後ろから声がかかった。振り返ると、見知らぬ老人が立っていた。
「神様の姿を見てしまったな」
「え?」
「あの面をつけた姿は、もう人間ではない。神様が降りてきているんだ」
老人は僕の肩に手を置いた。その手は異様に冷たかった。
「神様は君を選んだようだ。これからの一年間、君は神様の『依り代』になる」
「どういうことですか?」
「君の体を通して、神様がこの世界を見る。十年に一度、神様は新しい目を求めるんだ」
そう言うと老人はふっと姿を消した。まるで幻だったかのように。
その日から、僕の身に異変が起きるようになった。時々、自分の意思とは関係なく体が動いたり、見知らぬ場所で目が覚めたりするのだ。そして夜になると、あの神楽面をつけた姿が夢に現れ、僕に何かを伝えようとする。
一週間後、宮本さんが僕を訪ねてきた。
「健太、あの夜、神楽殿を覗いたね?」
僕が黙って頷くと、宮本さんは深刻な表情で続けた。
「あの面は特別なんだ。三百年前、この地域を襲った大飢饉の時、村人たちは山の神に助けを求めた。そして一人の少年が神の声を聞き、その姿を木の面に刻んだ。その面をかぶった少年は村に豊作をもたらしたが、一年後に命を落とした」
「それが…あの面?」
「そう。その後も十年に一度、神様は若い目を求めて、面を通して人間に憑依する。選ばれた者は一年間、神の依り代となる。その間、様々な不思議な力を授かるが、代償も大きい」
僕は震える声で聞いた。「僕はどうなるんですか?」
「来年の祭りまでに、新しい面を作らなければならない。君の目に映った神の姿を、面に刻むんだ。そうすれば、神様は新しい面に移り、君は解放される」
それから一年、僕は確かに不思議な力を得た。他人の心が読めたり、未来の出来事が見えたりするようになった。しかし同時に、激しい頭痛や幻覚に苦しめられた。
そして翌年の祭りの準備が始まる頃、僕は宮本さんの指導のもと、木彫りを始めた。彫り進めるうちに、あの夜見た神の姿が鮮明によみがえり、自然と手が動いて面が完成していった。
完成した面は、昨年僕が見たものとは似ても似つかないものだった。しかし不思議と、これこそが「本当の神の姿」だと確信があった。
祭りの夜、新しい面を使った「神迎えの舞」が行われた。僕は今度は正式に招かれ、神楽殿の中で見学することになった。舞手が新しい面をつけて舞い始めると、僕の体から何かが抜け出ていくような感覚があった。同時に、一年間感じていた重圧が消えていくのを感じた。
舞が終わった後、宮本さんが僕に近づいてきた。
「これで君は自由になった。神様は新しい面に移られた」
「でも、また十年後…誰かが…」
「それが神様との約束だ。そして、君は今度から神楽の世話役として、その伝統を守る側になるんだ」
その夜、久しぶりに穏やかな眠りにつくことができた。夢の中で、あの老人が再び現れ、「よく務めを果たした」と言って微笑んだ。
それから数年が経った今、僕は大学生になりながらも、毎年の祭りの準備を手伝っている。そして十年に一度の大祭が近づくたび、誰が次の「神の目」に選ばれるのか、密かな恐れと畏敬の念を抱いている。
神様はいつも見ている。特に古い神楽面を通して。
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日本各地には神楽面に関する不思議な伝承が実際に存在します。
島根県の石見神楽では、古い面に霊が宿るという言い伝えがあります。2007年、地元の神楽保存会が所有する江戸時代の面が保管されていた蔵で火災が発生しました。不思議なことに、蔵の中の多くの品が焼失したにもかかわらず、古い神楽面だけが無傷で発見されたのです。調査員によると、面の周囲だけ炎が避けたような痕跡があったといいます。
また、2013年には宮崎県の高千穂神社で興味深い出来事が報告されています。夜神楽の練習中、百年以上前の古い面をつけた舞手が突然、普段とは異なる複雑な舞を披露し始めたのです。舞手本人は後に「体が勝手に動いた」と証言しています。この現象について民俗学者は「神憑り」の一種ではないかと分析しています。