忌み石の囁き
真夏の午後、蝉の声が響き渡る中、俺たち高校二年生の3人は地元の古い神社の境内で涼んでいた。
「暑すぎるぜ。もうちょっと涼しい場所ないかな」と友人の健太が言った。
「神社の奥に池があるって聞いたことがあるよ」僕、佐藤隆司は地図アプリを見ながら言った。
「行ってみようよ」もう一人の友人、明日香が立ち上がった。
俺たちは本殿の横から続く小道を進んだ。うっそうとした木々が生い茂り、日差しを遮っていた。
木立を抜けると、小さな池が現れた。池の周りには苔むした石が点在し、静寂が漂っていた。
「ねえ、あれ見て」明日香が指さした先に、半分地面に埋もれた古い石碑があった。
苔と泥に覆われた石碑だが、よく見ると表面に文字が刻まれている。
「何か書いてあるね」健太が石碑の苔を手で払った。
「やめろって、そういうのは触っちゃダメだよ」明日香が制止したが、健太は聞く耳を持たなかった。
僕も興味を持ち、スマホのライトで照らしながら石碑を見た。かすれた文字が浮かび上がる。
「忌み石、触れる者、祟りあり…」
僕が読み上げると、急に池の水面が波打ち、風もないのに木々がざわめいた。
「なんか嫌な感じするね。帰ろうよ」明日香が言った。
しかし健太は石碑に興味津々で、「これ、持って帰ろうぜ。きっと何か面白い話があるんだよ」と言い出した。
「バカ言うなよ。神社の物を持ち出したら呪われるぞ」僕は冗談交じりに言ったが、実際、背筋に冷たいものを感じていた。
「写真だけにしておこうよ」明日香の提案で、僕たちは石碑の写真を撮ることにした。
シャッターを押した瞬間、カメラのフラッシュが異様に明るく光り、一瞬、石碑の周りに人影のようなものが映ったような気がした。
「今、何か見なかった?」僕が聞くと、二人は首を振った。
その夜、俺は奇妙な夢を見た。池の中から白い着物を着た女性が現れ、「返して、返して…」と繰り返す。目が覚めると、体が冷や汗でびっしょりだった。
翌日、健太から電話があった。「おい、スマホの写真見たか?石碑の写真、ヤバいぞ」
急いでスマホを確認すると、石碑の写真には確かに異変があった。写真の端に、白い着物を着た女性が写っていたのだ。しかも、その顔はぼんやりとしているのに、目だけが異様に黒く、こちらを見つめているように見えた。
「これ、合成じゃないよな?」
「馬鹿言うなよ。俺がそんなことするわけないだろ」健太の声は震えていた。
その日から、奇妙なことが続いた。夜中に水の滴る音で目が覚めたり、誰もいないはずの部屋の隅に人影を感じたり。明日香も同じような体験をしているという。
一週間後、健太が学校を休んだ。連絡を取ろうとしても応答がない。心配になった俺と明日香は放課後、健太の家を訪ねた。
健太の母親が開けたドアの向こうで、彼の姿はなかった。「昨夜から部屋に閉じこもったきり。朝になっても出てこないのよ」
健太の部屋のドアをノックしても返事はない。仕方なく鍵を開けてもらうと、そこには信じられない光景が広がっていた。
壁一面に同じ石碑の写真が貼られ、その上から「返せ、返せ」と赤い文字で書かれていた。健太はベッドの上で震えながら膝を抱え、「来るんだ、あの女が来るんだ」と繰り返していた。
「おい、しっかりしろ!」僕が健太の肩を掴むと、彼は狂ったように笑い出した。
「あいつ、石を持って帰ったんだ。あの忌み石の欠片を…」
健太のデスクの上には、あの石碑から欠け落ちたと思われる小さな石の破片があった。
その夜、僕たちは神社の住職を訪ね、事情を説明した。老住職は深刻な表情で頷いた。
「忌み石は、江戸時代に村で起きた恐ろしい事件を鎮めるために建てられたものじゃ。嫉妬に狂った女が七人の村人を殺し、最後に池に身を投げた。その魂を封じ込めたのがあの石碑じゃ」
「どうすれば健太は…」
「石を元の場所に戻さねばならん。そして、しかるべき祓いをせねば」
翌日、俺たちは健太を連れ、石の欠片を持って神社へ向かった。健太は一晩で痩せ衰え、目の下にクマができていた。「夜中じゅう、あの女が来るんだ…」と彼は震える声で言った。
池に着くと、住職は祝詞を唱え始めた。健太が石の欠片を元の石碑の場所に置くと、急に風が強まり、池の水面が大きく波打った。
「ひ、引っ張られる!」健太が叫んだ瞬間、彼の体が池の方へ引っ張られるように動いた。俺と明日香は必死に健太の腕を掴んだが、見えない力が彼を引っ張る。
住職は祝詞を続け、お祓いの塩を撒いた。すると風が止み、池も静かになった。健太の体も元に戻り、彼はその場に崩れ落ちた。
「石を触れたのは健太だけじゃないはずだが…」住職が言った。
「俺も触りました」僕は正直に答えた。
「お前さんは、写真を撮る時に『失礼します』と言ったろう?」
「え?はい、無意識に…」
「それが良かったのじゃ。石の主に敬意を示したからこそ、お前は軽い祟りで済んだ。しかし、お嬢さんは…」
住職が明日香を見た時、彼女の表情が変わった。目が異様に見開き、唇が歪む。
「返して…私の命を返して…」
明日香の声ではない、低く歪んだ声が響いた。
住職は素早く明日香の額に御札を貼り付けた。彼女は悲鳴を上げ、その場に倒れた。
「この娘、写真を撮る時に笑ったな?」
「はい、確か…」
「石に宿る魂を嘲笑ったと取られたのじゃ。だが大丈夫、今のお祓いで祓えた」
明日香は数分後に目を覚まし、何が起こったか覚えていないようだった。
住職は石碑の前に新しい塩と御神酒を供え、再び祝詞を唱えた。
「これからは毎年、夏の土用の丑の日に供物を捧げなさい。そうすれば、彼女も安らかに眠れるじゃろう」
その夜、僕は再び夢を見た。白い着物の女性が現れたが、今回は怒りの表情ではなく、安らかな顔をしていた。「ありがとう」と一言言うと、彼女は池の中へと消えていった。
それから数年経った今でも、俺たち3人は毎年夏になると、あの神社を訪れ、忌み石に供物を捧げている。
時々、池の水面に女性の顔が映ることがあるが、もう恐れることはない。彼女はただ、自分を忘れないでくれる人がいることに感謝しているのだと思う。
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日本各地には実際に「忌み石」や「縛り石」と呼ばれる石碑が存在します。
2013年、滋賀県の山間部にある古い神社で興味深い発見がありました。境内の奥にある池の近くから、江戸時代に建てられたとみられる石碑が見つかりました。風化して判読困難でしたが、「触るべからず」「祟りあり」といった文字が確認されたのです。
地元の古文書を調査したところ、1789年(寛政元年)に村で起きた連続殺人事件に関連する記録が見つかりました。嫉妬に狂った女性が村人数名を殺害し、最後は池に身を投げたという記録があり、その魂を鎮めるために石碑が建てられたとされています。
また、2017年には東京都内の再開発工事中に、江戸時代の石碑が発掘されました。専門家の解読によると「怨霊封じの石」とされ、疫病で亡くなった人々の怨念を封じ込めるために建てられたものと推測されています。
興味深いことに、こうした石碑が建てられている場所では、しばしば不思議な現象が報告されています。2019年の民俗学調査では、全国47カ所の「忌み石」周辺に住む人々を対象にアンケートを実施したところ、約3割の人が「夜に水の音が聞こえる」「写真に異常が現れる」などの体験を報告しています。
現代の科学では説明できない現象も多いですが、日本の伝統的な神道や民間信仰では、自然物に宿る霊魂の存在を認め、適切な祭祀によって鎮魂することが重要とされてきました。今もなお、地方の古い神社では、かつての悲劇を忘れないよう、定期的に石碑への供養が行われているのです。