百年目の施餓鬼
夏の強い日差しが照りつける中、私は古びた寺院の山門をくぐった。夏休みの自由研究として、この地域に伝わる伝統行事について調べることにしたのだ。
「安養寺」は築350年以上の歴史を持つ古刹で、特に毎年行われる「施餓鬼会」が有名だという。施餓鬼とは、あの世をさまよう無縁仏や餓鬼道に堕ちた霊を供養する儀式だ。
「よく来たね、和也くん」
住職の藤本さんが穏やかな笑顔で迎えてくれた。70代半ばとおぼしき住職は、私の父が子供の頃からこの寺を守っているという。
「今年の施餓鬼会について調べに来ました。特に由来とか、伝承とかあれば教えてほしいんです」
住職は少し表情を曇らせた。
「実はね、今年の施餓鬼会は特別なんだよ。ちょうど百年目になるからね」
「百年目?何かあるんですか?」
住職は深呼吸をして、お茶を淹れながら静かに語り始めた。
「明治時代の終わり頃、この寺で恐ろしい出来事があったんだ。当時の住職が密かに行っていた儀式が原因で…」
明治43年(1910年)、安養寺では一人の若い僧侶が住職を務めていた。彼は修行のために都から来たばかりだったが、仏教の教えに加え、様々な呪術にも精通していたという。
その年の夏、村では原因不明の病が流行り、多くの人が亡くなった。死者の数があまりに多かったため、寺の墓地は拡張され、中には埋葬の儀式も簡略化されたものもあった。
住職は疫病を鎮めるため、特別な施餓鬼会を執り行うことを決めた。これは通常の供養ではなく、死者の霊を一度呼び戻し、きちんと供養して成仏させるという、古来より禁じられていた儀式だった。
「供養が不十分な霊は、成仏できずにこの世をさまよい続ける。その怨念が疫病を引き起こしているのだ」と住職は考えたのだ。
儀式は旧暦7月15日の満月の夜に行われた。住職は本堂に108本の灯明を灯し、特別な真言を唱えながら死者の名を記した位牌を並べた。そして儀式の最中、不思議なことが起こった。
本堂に濃い霧のようなものが立ち込め、次第に人の形に変わっていったのだ。最初は一人、また一人と、本堂には亡くなった村人たちの姿が現れ始めた。
住職は恐れることなく、真言を唱え続けた。しかし、現れた霊の数があまりに多く、中には住職の知らない姿もあった。それは安養寺の墓地に眠る、何百年も前から祀られてきた無縁仏たちだった。
儀式が終盤に差し掛かった頃、突然、本堂の灯明が一斉に消え、激しい風が吹き荒れた。驚いた住職が灯明を点け直すと、そこには一人の女性の霊が佇んでいた。
それは住職の婚約者だった女性だった。彼女は住職が出家する前に亡くなったとされていたが、実は住職自身が密かに呪術で命を奪っていたのだ。その秘密を誰よりも知っていた彼女の霊は、他の霊とは違い、成仏することなく住職に憑りついた。
翌朝、村人たちが本堂を訪れると、住職は冷たくなって倒れていた。その顔は恐怖で歪み、髪は一夜にして真っ白になっていたという。
奇妙なことに、その日を境に村の疫病は収まった。しかし、住職の死後、寺には奇妙な噂が立ち始めた。夏の夜、本堂から読経の声が聞こえる、女性の泣き声が境内に響く、などだ。
それから百年間、安養寺では毎年施餓鬼会を欠かさず行ってきた。そして伝承によれば、百年目の施餓鬼会には、あの時の住職と女性の霊が再び現れるという。
「それで、今年が百年目なんですね」私は住職の話に息をのんだ。
住職は重々しく頷いた。「そうだよ。だから今年の施餓鬼会は特別な準備が必要なんだ。よかったら、君も手伝ってくれないかな?」
半信半疑ながらも、私は興味を持って手伝いを引き受けた。自由研究の良い材料になると思ったからだ。
施餓鬼会の準備は数日かけて行われた。本堂の掃除、灯明の用意、位牌の整理など、住職と私は毎日汗を流した。
「これは何ですか?」私は古い箱の中から出てきた、黒ずんだ位牌を手に取った。
住職は顔色を変えて、「それは触らない方がいい」と言い、急いで私の手から位牌を取り上げた。よく見ると、そこには「藤本妙心信女」と刻まれていた。
「藤本…住職と同じ苗字ですね」
住職は沈黙した後、ため息をついた。「実は…あの伝説の住職は、私の曽祖父なんだよ。そして、この位牌は彼の婚約者だった女性のものだ」
驚く私に、住職は続けた。「うちの家系はずっとこの寺を守ってきた。あの事件の後、寺は一時無住になったが、私の祖父が僧侶となって再興したんだ。そして私もその跡を継いだ」
「でも、なぜ百年も経つのに、まだその位牌を…」
「成仏できない霊を供養し続けるのも、私たちの役目なんだよ」住職は静かに言った。「特にあの女性の霊は…」
その夜、私は寺の客間に泊まることになった。明日は施餓鬼会当日で、早朝から準備があるからだ。
深夜、ふと目が覚めると、廊下を歩く足音が聞こえた。誰かが本堂に向かっているようだ。住職かと思い、そっと部屋を出て後をつけた。
月明かりに照らされた本堂には、住職の姿があった。しかし、普段の穏やかな表情ではなく、厳しい顔つきで何かを唱えている。そして、その前には先ほどの黒い位牌が置かれていた。
「百年の時が来た。今こそ全てを終わらせる時だ」
住職の声は低く、普段とは違う響きだった。その瞬間、本堂の中に霧のようなものが現れ始めた。私は恐怖で身動きできなくなった。
霧の中から、一人の女性の姿が浮かび上がった。長い黒髪を垂らし、白い着物を纏ったその女性は、まるで浮いているかのように床に足がついていなかった。
「妙心…今度こそ、私が正しく供養し、あなたを成仏させる」住職が言った。
女性の幽霊は住職を見つめ、口を開いた。「藤本家の血を引く者よ。百年前の約束を覚えているか」
「約束?」住職が戸惑う様子を見せた。
「あの夜、あなたの先祖は私に誓った。百年後、自らの命と引き換えに私を解放すると」
私は恐怖で震えながらも、その光景を見つめていた。住職は立ち上がり、「わかった。私の命を捧げよう」と言った。
その瞬間、私は思わず叫んでいた。「やめてください!」
二人の視線が私に向けられた。女性の幽霊は私を見て、不思議そうな表情を浮かべた。
「お前は…」
「彼は関係ない。私との約束だ」住職が言った。
しかし、女性の幽霊は私に近づいてきた。恐怖で足がすくみ、逃げることもできない。
「お前の中に、あの人の魂の欠片を感じる」幽霊が言った。
突然、私の頭に閃光が走り、見知らぬ記憶が流れ込んできた。明治時代の安養寺、若い住職の姿、そして美しい女性との約束。彼女を犠牲にして得た力、そして裏切りの罪悪感。
「僕は…あなたを殺したのか」思わず口から言葉が漏れた。
住職が驚いた顔で私を見つめる。「和也くん、何を言っている?」
女性の幽霊は微笑んだ。「転生しても、魂は覚えているのだな」
私は混乱していた。自分の中に別の記憶、別の人格が存在するような感覚。しかし同時に、不思議な安心感も湧いてきた。
「妙心さん、本当にごめんなさい」私は深く頭を下げた。「あなたを裏切って、苦しませてしまって」
幽霊は私の前に立ち、冷たい手で私の頬に触れた。「待っていたのは謝罪の言葉ではない。ただ、真実を認めてほしかっただけよ」
その瞬間、本堂に光が満ち、女性の姿は徐々に透明になっていった。
「百年の恨みは晴れた。今こそ私は成仏できる」
最後に微笑んだ女性の姿は、光の粒子となって消えていった。
翌朝、施餓鬼会は厳かに執り行われた。不思議なことに、私は昨夜の出来事を鮮明に覚えていたが、現実とも幻ともつかない感覚だった。
儀式の後、住職は私を呼び、こう言った。「昨夜のことは、この寺の秘密として胸に留めておいてほしい。そして、もしよかったら、これからも安養寺とのご縁を大切にしてほしい」
私はうなずいた。そして帰り際、本堂の隅に安置されていた黒い位牌を見ると、それは新しい光沢を帯び、「藤本妙心信女 往生菩提」と刻まれていた。
あれから数年が経ち、私は大学で仏教学を学んでいる。時々安養寺を訪れると、住職は優しく迎えてくれる。そして私は感じるのだ。自分の中に眠る古い記憶と、これから紡いでいく新しい物語を。
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日本の寺院における施餓鬼会や盂蘭盆会には、実際に不思議な体験談が数多く報告されています。