表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怖い話  作者: 健二
縺ゅ↑縺溘′辟。莠九↓謌サ繧後k繧医≧縺ォ
208/494

夕闇の祠


空が赤く染まり始める頃、その音が聞こえてくる。


かすかな水音と、女性の泣き声。


「あの祠には絶対に近づくな。特に夕暮れ時はな」


高校二年の夏休み、友人の悠太と私は彼の祖父母が住む山間の集落を訪れていた。東京の暑さから逃れて、涼しい山の空気を楽しみにしていたはずだった。


悠太の祖父は、集落の奥にある小さな湖を指さしながら、厳しい表情でそう言った。湖のほとりに建つ小さな祠は、夕日に照らされて不気味に輝いていた。


「あそこは禍津姫まがつひめの祠だ。水神様を祀っているが、夕闇の時間になると、別の"何か"が出るという」


祖父の真剣な表情に、冗談で聞き流すこともできなかった。


その夜、悠太の家の縁側で涼んでいると、集落に古くから住む老婆が訪ねてきた。彼女は私たちの話を聞きつけ、湖の祠について語り始めた。


「あの祠には、昔から"入水者"が集まるという言い伝えがあるのじゃ。特に夏の夕暮れ時は要注意。水と陸の境目が曖昧になる時間なんじゃよ」


老婆は続けた。「五十年前、この村の若い娘が婚約者と喧嘩して、夕暮れ時に湖に入水した。その後、毎年の命日になると、あの祠から泣き声が聞こえるようになった」


話を聞いた私たちは恐ろしくなったが、同時に好奇心も掻き立てられた。


「でも、なぜあんな場所に祠があるんですか?」と私が尋ねると、老婆は表情を曇らせた。


「もともとは水神様を祀るための祠じゃった。しかし、江戸時代にこの地域で大水害があってな。多くの犠牲者が出た後、祠が"変わった"と言われている。水死者の魂が集まる場所になってしまったんじゃ」


翌日、悠太と私は昼間のうちに湖を見に行くことにした。祖父に黙って家を出たが、夕方までには戻ると約束した。


湖は思ったより美しく、透き通った水面が太陽の光を反射して輝いていた。祠は小さく質素なものだったが、なぜか周囲だけ異様に静かだった。鳥の声も風の音も聞こえない。


祠の前には「夕刻参拝禁止」と書かれた古い立て札があり、その横には無数の水子地蔵が並んでいた。それぞれに赤い前掛けがつけられ、花が供えられていた。


「これは水難事故で亡くなった人の供養なのかな」と悠太が言った。


祠の中を覗くと、中央に立つのは普通の水神様ではなく、長い髪を垂らした女性の像だった。その表情は悲しげで、両手は胸の前で組まれていた。


時間を忘れて周囲を探索しているうちに、空が徐々に赤みを帯び始めた。急いで帰ろうとしたその時、私は足を滑らせて湖に落ちてしまった。


水は予想以上に冷たく、そして深かった。必死で手をばたつかせるが、何かが足首を掴んで引っ張っているような感覚がある。恐怖で声も出ない。


悠太が飛び込んで私を引き上げてくれた。岸に上がると、二人とも息を荒げながら振り返った。


夕日に染まる湖面から、何かが立ち上がっていた。


最初は靄のようなものだったが、次第に人の形になっていく。長い黒髪を垂らした女性の姿。顔は見えないが、白い着物が水に濡れて体に張り付いている。


恐怖で凍りついた私たちを救ったのは、突然現れた悠太の祖父だった。


「動くな!目を逸らすんだ!」


祖父は私たちの前に立ち、懐から古い御札を取り出して水面に向かって投げた。御札が水面に触れた瞬間、女性の姿は水しぶきとなって消えた。


「言ったはずだ。夕暮れ時に近づくなと」


祖父の厳しい声に、私たちは何も言い返せなかった。


帰り道、祖父は湖と祠の真実を語ってくれた。


「あの祠は、元々は水の恵みに感謝するための場所だった。しかし、明治時代の大洪水で多くの村人が亡くなった後、性質が変わってしまった」


祖父によると、特に「夕闇の時間」は要注意だという。太陽が沈み始める夕暮れ時は、この世とあの世の境界が薄くなり、水死者の魂が現世に戻ってくるのだと。


「水死者は孤独だ。自分と同じように水に沈む者を求めている」


その夜、高熱に見舞われた私は、奇妙な夢を見た。湖の底にいる自分。周りには白い着物を着た多くの人々が立っていて、皆が同じ表情で私を見つめている。その中心にいるのは、祠で見た女性の像と同じ姿をした女性だった。


彼女は私に向かって何かを言っているようだったが、水中なので声は聞こえない。ただ、その表情は怒りではなく、深い悲しみに満ちていた。


翌朝、熱は下がっていたが、足首には何かに掴まれたような青あざが残っていた。祖父は村の神主を呼び、私たちのために祓いの儀式を行った。


神主は儀式の後、静かに話してくれた。


「禍津姫様は本来、水の守り神です。しかし、多くの水死者の怨念が集まると、その性質が変わることがある。あの祠は水死者を鎮める役目も持っています」


神主によれば、夏の終わりに行われる「水霊祭」で、水死者の魂を慰める儀式を行うことで、彼らは少しずつ成仏していくのだという。


「あなたが見た女性は、おそらく禍津姫様の化身。あなたを引きずり込もうとしたのではなく、むしろ警告していたのかもしれません」


残りの滞在期間、私たちは湖に近づかなかった。しかし、帰る前日、悠太の祖父と一緒に祠を訪れることになった。


今度は昼間の明るい時間に、神主も同行して「禊祓い」の儀式を行った。祖父は湖に向かって塩を撒き、神主は祝詞を唱えた。


儀式の最中、不思議なことが起きた。突然の微風が吹き、湖面が波打ち、祠の中の女性像が一瞬輝いたように見えたのだ。


神主は微笑んで言った。「禍津姫様が理解してくださったようです」


東京に戻ってからも、私はあの夏の出来事を忘れられずにいた。特に夕暮れ時になると、あの湖の光景が鮮明に蘇る。


一年後の夏、私たちは再び悠太の祖父母の家を訪れた。湖の祠を見に行くと、以前あった「夕刻参拝禁止」の立て札はなくなっていた。代わりに「水霊安全祈願所」という新しい札が立てられていた。


祖父によると、この一年で村では水難事故がなくなり、祠から聞こえていた泣き声も止んだという。


「禍津姫様は怒っていたわけではない。ただ、人々に水の危険を知らせようとしていたんだ」


夕暮れ時、私たちは遠くから湖を眺めた。沈みゆく太陽の光が水面を赤く染める。しかし今度は、不気味さではなく、どこか神聖な美しさを感じた。


湖面には何も現れなかったが、微かな風が吹き、まるで誰かが安堵のため息をついたような音が聞こえた気がした。


水と陸の境界、昼と夜の境目、生と死の間。日本の神様は、そういった境界を守り、時に人間に警告を与えるのかもしれない。


---


この物語の背景には、日本各地に実在する水神信仰があります。特に「禍津姫」は日本神話に登場する水の神であり、荒ぶる水の力を象徴しています。


実際に2005年、長野県の山間部にある小さな湖では、夏の夕暮れ時に湖面から人影が立ち上がるという現象が複数の人々によって目撃されました。地元の民俗学者による調査では、その湖では明治時代に入水自殺が多発した記録が残っていたといいます。


また、1978年には福島県のある村で、水辺の祠から夜になると女性の泣き声が聞こえるという噂が広まり、地元の神社が特別な祓いの儀式を行ったという記録が残っています。儀式の後、祠の周辺から江戸時代の水難事故犠牲者を弔うための位牌が発見され、適切に供養されたそうです。


近年の研究では、水辺で起きる不思議な現象には科学的な説明がつくものも少なくありません。夕暮れ時の光の屈折や湖から立ち上る霧が人の形に見えることもあります。また、水面下の水流が作り出す音が、特定の条件下で人の声のように聞こえることもあるそうです。


しかし、日本の水辺の信仰は単なる迷信ではなく、自然への畏敬の念と共に、水の危険性を伝える知恵でもありました。特に夏は水の事故が増える季節。先人たちは「水神の怒り」という形で、水辺の危険を若い世代に伝えてきたのです。


現在も全国各地の水辺には小さな祠が建てられ、水難事故防止の祈願が行われています。特に長崎県の海神神社や、滋賀県の竹生島の都久夫須麻神社などは有名で、漁師や船乗りたちの厚い信仰を集めています。


科学が発達した現代でも、水辺の不思議な現象の報告は絶えません。2018年には石川県の某湖で、夕暮れ時に湖面から白い人影が現れる様子がスマートフォンで撮影され、SNSで話題になりました。映像分析の結果、湖面の光の反射と霧の動きが重なった現象と考えられていますが、完全に解明されたわけではありません。


自然の神秘と人間の想像力が生み出した日本の水神信仰。それは私たちに、自然の美しさと同時に、その危険性も教えてくれる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ